【史料1】元亀3年8月4日付河田伯耆守宛上杉謙信書状写(歴代古案巻一所収文書 ◆『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』1113号 以下は『上越』と略す)
野馬差越候、一段之馬ニ而見事候、仍自賀州番手之者共、相重(ママ)廿九・晦日両日出備候故〻「処」、初源五方数多籠候置候条、手負無際限候、仕出足と〻「を」違候時分、豊前守懸着候故、敵崩備引入候処、撃押付数十人討捕故、敵退散之由申候、内々可出馬支度申候得共、静候間、我々(等ヵ)義(儀)者、仕置計申付、越山候 ○「之念」願迄候、兎角ニ明後吉日候間、蔵田所迄門出申候、無心元思間敷候、東方三楽稼故、弥相調候、可心易候、万吉重而謹言、
八月四日 謙信
河田伯耆守殿
【史料1】は、諸史料集では元亀3年の発給文書とされている。
それは、同年6月に入るか入らないかの頃に、甲州武田信玄・越中国増山の神保総三郎長国・同金山(松倉)の椎名右衛門大夫康胤と連帯する加賀国一向一揆が、北陸に謙信を引き出して釘付けにするために越中国砺波郡の河上五位庄へ進出して越中国一向一揆と合流し(『上越市史 別編Ⅰ 上杉氏文書集一』1100〜1102・1105号)、神通川以西の越中国味方中や駐在の越後衆が拠る城砦に襲いかかり(『上越』1107号)、6月中旬には神保旧臣衆(上杉陣営から離脱した主家には従わなかった神保氏の重臣たち)が拠る婦負郡の火宮城を攻め立て、神通川以東に駐在の越後衆が火宮城救援のために越河して五福山に布陣すると、大挙して押し寄せて打ち破り(『上越』1108〜1111号)、ついには越河して上杉陣営の防衛線を突破し、新川郡の富山城に入ったので(遅くとも7月には入城したであろう)、ようやく8月に入って北陸出馬の態勢を整えた謙信は、総力を挙げて越中国富山城に攻めかかり、遅くとも8月10日には越中国に入っているのは確かであるから(『上越』1114号)、この日付と関連付けて謙信が吉日の8月6日に越中国へ出馬したと考えられて、元亀3年に比定されたのであろう。
しかし、【史料1】の内容は、天正元年8月に入って越府の謙信の許に、去る7月29日と晦日の両日、越中国駐在の越後衆が拠る富山城の向城に対し、加賀国一向一揆の番手衆が富山城から出撃してきたが、越後国上杉家の客将である村上源五国清をはじめとする数多の越後衆が迎え撃ち、敵は数えきれないほどの負傷者を出し、出足を挫かれたところに、越後国上杉家の越中国代官である河田豊前守長親(越中国松倉城に拠る)の率いる軍勢が駆け付け、敵が陣備えを乱して引き下がったところを追撃して数十人を討ち取ったので、敵は逃げ去ったという報告が寄せられると、謙信は8月4日に、見事な野馬を贈ってくれた上野国沼田城の城将である河田伯耆守重親(河田長親の叔父)へ宛てて返書を発し、賀州番手衆の攻撃を退けた越中国在陣の越後衆と越中国松倉城に駐在する河田長親の軍勢の働きにより、富山表が平穏になったので、内々に北陸へ出馬する準備をしていたが、自分(謙信)は代官の河田たちに越中国東郡を統治するための方策を申し付けるだけに留め、ひたすら待望していた越山を遂げるのみであり、何はともあれ明後6日は吉日なので、門出として蔵田の所(越府代官の蔵田五郎左衛門尉の役所か)へと移るつもりであり、心配しないでほしいことと、「東方」は太田三楽斎道誉の尽力により、いよいよ態勢が整ったので、安心してほしいことを伝えたものである。
このように、謙信の行く先は北陸ではなくて関東であるし、越後衆と戦ったのは賀州衆の「番手之者共」であるし、「東方」(東・北関東)が太田「三楽」(美濃入道道誉。俗名は資正)の尽力によって整ったというのは、後述の【史料4・5】における「東方」の形勢が「一変」した事態を指すものであろうから、【史料1】の発給年次は天正元年となろう。
【史料2】(元亀2年ヵ)8月8日付太田美濃守宛上杉謙信書状(個人所蔵文書 ◆『上越』1059号)
急度令馳筆候、去比以両使其表江之諸士へ申届候処、案之外ニ其方不先忠、懇比之心懸、且感入、且先年侫人之表裏故、成物遠行、如此ニ馳走、失面目候、此上之儀者、菟角ニ弥其近辺者不及申、房州迄之可被取縄(ママ)義(儀)、千言万句候、可越山以心持、諸軍悉集置候、可心易候、路次不自由之間、早々啓候、恐々謹言、
八月八日 謙信判
太田美濃守殿
【史料3】(元亀2年ヵ)8月8日付三戸駿河守室宛上杉謙信書状(個人所蔵文書 ◆『上越』1060号)
いせんハ山よしまこ二郎ところより申こすところに、そもしちそうをもつて、三らくふしへ申わけられ候ゆへ、いかにもきゝとゝけ、せんちうをうしなハす、へんたうまことに/\申つくしかたく候、しかしなから、せんねんねい人のさまたけをもつて、物とおになり行、たゝいまちそう、めんほくをしつし候、なを/\三らくへねんを入、ゑつさん候ハヽ、さう/\そのくちとゝのいて、あわせも候やうニ、ばうせうまてのかせぎひつきやう三らくまへにこれあるへく候、このよしよく/\つたへ候て給へく候、いせんりやうしに申こす事共、すこしもあいちがうましく候、心やすかるへく候、めてたく候、ゑつさんのしふん申まいらせ候へく候、かしく、
八月八日 けん信(花押a)
三と
うちへ
【史料2・3】はどちらも元亀2年に仮定されているが、当時は越・相同盟によって断交していた謙信と太田道誉の間が関係改善したのであれば、それは越・相同盟の破談後であろうし、同日付の【史料4】とは、謙信が近いうちに関東へ出馬するつもりであること、すでに軍勢を悉く越府に集め置いていること、東方衆との関係改善がなったことなどが一致しているので、【史料2・3】の発給年次も天正元年となろう。
天正元年8月に入るか入らない頃、越府の謙信の許に、関係改善が進んでいた「東方之衆」の重要人物であり、常州太田の佐竹氏の客将である太田道誉から書状が届いて通交が再開したので、謙信は8月8日に道誉へ宛てて返書を発し、去る頃に両使をもって、その表(東方)の諸士へ申し届けたところ、意外にも其方(道誉)は先忠を忘れておらず、懇ろな心掛けに、一方では、感じ入っており、一方では、先年に佞人の妨げによって疎遠となり、このような奔走をしなければならず、面目を失して悔しい思いをしていること、ここまで来たからには、何はともあれいよいよ近辺の諸士はもとより、房総の諸士も取りまとめてもらいたく、言葉を費やして頼み入ること、越山する心づもりであり、すでに軍勢を悉く手元に集め置いているので、安心してほしいこと、「路次不自由」であるため、早々に申し送ったこと、これらを取り急ぎ伝えたものである。
謙信は同時に、太田道誉の妹であり、太田氏の族臣である三戸駿河守の妻「としょう」へ宛てても書状を発し、以前に山吉孫次郎豊守(謙信の最側近)の方から申し越したところ、其文字(としょう)の馳走をもって、三楽父子(太田道誉・梶原政景)へ道理を説いてくれたので、確かに聞き届けた父子から、先忠を忘れずに返答が届き、誠にもって言い尽くせないほどに感謝していること、しかしながら、先年に佞人の妨げによって、父子とは疎遠となってしまい、今こうして関係改善のために奔走をしなければならないのは、面目を失して悔しい思いであること、三楽へ殊更念入りに伝えるところは、謙信が越山するからには、早々にそちら(東方)の諸士を取りまとめて、合わせるようにして房総の諸士に至るまで結集させてもらいたく、つまりは道誉の手腕に懸かっていること、このところを道誉へしっかりと申し伝えてもらいたいこと、以前にこちらから両使をもって申し越した存念にいささかも相違はないので、安心してほしいこと、めでたいこと、越山する時分にまた申し参らせること、これらを懇ろに伝えたものである。
【史料4】天正元年8月8日付菅原左衛門佐宛上杉謙信書状写(謙信公御書一所収文書 ◆『上越』1169号)
就越山之義(儀)、重而被申越条〻「透」、誠々無余〻■義(儀)共可申様無之候、抑其方両人忠信第一可畏義(儀)勿論ニ候、但後人為忠信ニも亦信・甲之取乱与云、殊東方一変之上者、可然時節争而可弓(油)断候哉、爰元ニ人数集置候処、佐藤筑前守并菅左被越候使見届候間、可心易候、越山之内家中へ付力堅固ニ備被申候付可被相待候、猶筑前守目出重而恐々謹言、
八月八日 謙信御居判
菅原左衛門佐殿
やはり天正元年8月に入るか入らないかの頃に、関東味方中の菅原左衛門佐為繁(武蔵国羽生城に叔父の木戸伊豆守忠朝と共に拠る)から、謙信の関東出馬を求めるための使者が到来したので、謙信は8月8日に菅原為繁へ宛てて返書を発し、越山の件については、繰り返し申し越された通り、誠にもって、未だに果たせないでいる状況を仕方がないと言って済ませるつもりはないこと、菅原・木戸両人の忠信は味方中第一であり、感謝しているのは勿論であろうこと、ただしそれだけでなく、後の人の忠信のためにも、信・甲両国の取り乱しといい、取り分け「東方」の形勢が一変したからには、この到来した時節をどうしてなおざりにするであろうか、という思いであり、すでに自分の手元に出馬のために人数を集め置いているのは、佐藤筑前守と菅原の寄越した使者が見聞しているので、安心してほしいこと、越山するまでの間は、家中を勇気づけて防備を固めて待っていてもらいたいこと、これらを懇ろに伝えたものである。
【史料5】天正元年8月18日付河田伯耆守宛上杉謙信書状(維宝堂古文書 ◆『上越』1170号)
態為音信珎敷具足到来祝着候、仍為越山ニ候間、越中堅固ニ可申付ため半途江出馬候、賀州之者共断而労兵故、梱望之様ニ候間、半途ニ立馬、彼口手堅一際可付事輙候間、可心安候、上口未落居ニ候て、越山候得者、其表ニ張陣も不叶、越中も捨事ニ候条、留守中手堅申付、心安為可張陣如此候、扨亦弥五郎申越分者、氏政向羽生出張之由申越候、弥五郎越候飛脚者、南衆出張之儀者不知由申候、吾分も兎角不申越候、如何実儀ニ候哉、無心元候、東方も属一変候上、近日越山前ニ候間、家中ニ付力堅固ニ可防戦由、細々以飛脚羽生江可申越候、又帰馬之内者、何方之飛脚も其地ニ留、此方江不越、続飛脚にて可申候、万吉帰陣之上可申候、謹言、
追而、織部子之事、色々申候へ共、陣ニ何も召連、可添もの無之候間、帰
陣之上と申候、身之帰陣申候者、無理ニ取可越候、其時追而可越候、以
上、
八月十八日 謙信(花押a)
河田伯耆守殿
結局は関東ではなくて北陸へ出馬した謙信は8月18日に、珍しい具足を贈ってくれた上野国沼田城将の河田重親へ宛てて返書を発し、越山するためには、越中国の防備を整えておかなくてはならず、方策を在陣衆へ申し付けるために半途(越中・越後国境)まで進陣したところ、労兵の賀州衆が停戦を懇願してきたので、半途に陣所を設けて対応しており、富山方面を一段と安定させるのは容易なので、安心してほしいこと、北陸が落着しないうちに、越山してしまっては、上野国に張陣し続けてはいられず、越中国も手放すことになり、留守中の防備の方策を在陣衆に申し付けて、安心して張陣するために、このような行く先の変更をしたわけであること、関東代官の北条弥五郎景広(上野国厩橋城代)からの報告によると、相州北条氏政が羽生に攻め寄せてきたそうであるが、北条景広の寄越した飛脚は「南衆(相州北条軍)出張」の事実を知らないと申しており、吾分(河田重親)もともすれば申し越してこないので、実態はどうなっているのか、気を揉んでいること、東方の形勢も一変したからには、近々越山の機会が訪れるので、家中を勇気づけて堅固に防戦するように、羽生へ飛脚を遣わして、念入りに申し伝えるべきこと、帰府してからは、どこからの飛脚であっても沼田にそのまま留めて、こちらへは寄越さず、続飛脚にて申し越すべきことなどを伝えた。
このように謙信は天正元年7月から8月にかけての頃、今なお越中国富山城に拠っている加賀国一向一揆を打倒するために、越中国へ出馬する準備を進めていたところ、富山城の向城に配備した越後衆ならびに松倉城に駐在する河田長親の軍勢が賀州衆を迎撃して勝利し、富山城に逃げ帰った賀州衆は鳴りを潜め、富山表が平穏になったので、8月6日の吉日を期して関東へ出馬することを表明していたにもかかわらず、実際に出馬した場所は北陸であったわけだが、出府した日にちは、8月8日に太田道誉や菅原為繁へ宛てて書状を発していることからすると、それ以降である可能性もあろう。
それから、謙信は8月18日付の返書で沼田の河田重親に対し、自身は越中・越後国境に居ながらにして、賀州衆との講和は容易くまとまるであろうから、近いうちに関東へ出馬するというような感じの説明をしているわけだが、実際のところ謙信は、越中国に駐留させている越後衆が賀州衆に攻められようが攻められまいが、関東に余程の凶事が起こらない限りは、当初の予定通りに越中国へ向かうつもりでいたのだろうし、すでに8月18日には、両越国境どころか、富山表まで行ってしまったのだろう。
そして富山表に現れた謙信は遅くとも9月半ばまでに富山城を攻略して富山一帯を掌握したが、9月半ばには富山城から逃げた賀州衆の残党が蜂起したので、軍勢を繰り出し、数度にわたって追い崩し、逃げ込んだ先の安養寺(砺波郡の安養寺御坊ではなく、富山近郊の安養寺)に押し入って止めを刺すと、富山一帯に敵の姿は一騎一人も見えなくなった。そこで18日には、神通川を渡って婦負郡へ進み、加賀国から送り込まれた本願寺門徒衆と越中国増山の神保長国の家中衆が拠る滝山城に攻めかかったところ、越後衆が奮闘して二日間で諸曲輪を打ち破り、残るは実城ばかりの裸城としたなか、外張際で本願寺門徒衆を捕縛し、つい先日には神保衆の水越某(昨年までは上杉陣営に属していた水越孫次郎職勝か)が河田長親の役所に投降してきたので、身命ばかりは助けてやると、城内を全て焼き払い、23日に破却を終えている(『上越』1124号)。
10月19日に越中国代官の河田豊前守長親と旗本部将の村田忠右衛門尉秀頼(越中国津毛城将か)のそれぞれに、富山領の太田下郷と同上郷の料所代官を申し付けている(『上越』1175・1176号)、ことからすると、この頃まで謙信は新領を差配していた可能性があり、帰府したのはこれ以後であるかもしれない。
謙信が越中国へ出馬するための準備を内々に進めていたなか、外交面でもやはり7月から8月にかけての頃に動きがあった。
まず、三(遠)徳川家康からの使者が使者が参り、なおいっそう交誼を深めることを求められたので、8月朔日に、お互いに申し合わせていく条項についての誓詞を取り交わすことを提案する返書を発した(『上越』1054〜1056号 ◆ 謙信と徳川家康の通交における徳川側の取次・松平左近允の人物比定 - 越後長尾・上杉氏雑考)。
次いで、越・相同盟が破談となってしばらく経った元亀3年3月から同年4月にかけての頃に、関係改善のための交渉を始めた「房州・東方」(『上越』1094号)のうち、後者の重要人物である太田道誉から返答が寄せられ、「東方之衆」と連帯を再開して相州北条陣営と対抗していくところとなり、越中国へ向けて進軍中あるいは出府する間際の8月8日に、「東方之衆」の取りまとめに奔走してくれた道誉や、相州北条陣営の攻勢を受けている関東味方中の羽生衆に対して返書【史料2~4】を発し、道誉には、近いうちに越山するつもりなので、東方の諸士の更なる取りまとめと合わせて房州の諸士の取りまとめを頼み、羽生衆には、東方の形勢が一変したので、時節を捉えて越山するのは間近であるから、安心するように伝えたわけである。
ここにようやく謙信は「東方一変」と表する東方の諸士との関係改善を遂げたことになる。
※『上越』1124号は、諸史料集では元亀3年に比定されているが、井上鋭夫『一向一揆の研究』(吉川弘文館)では天正元年に推定されているそうである(『富山県史 資料編Ⅱ 中世』1788号〔注〕)。元亀3年8月から翌天正元年4月まで謙信率いる上杉軍は賀・越一向一揆が拠る富山城と対峙し続けていて、元亀3年9月中に、1124号に記されているような、この表(富山)を存分のままに申し付けたり、神通川を越えて滝山城を攻め落としたりする状況にはなかったはずなので、天正元年に比定するのが妥当であろう。
※ 天正元年3月5日に謙信が、奥州会津の蘆名家の使僧で、謙信とは親しい間柄である游足庵淳相へ宛てて発した書状(『上越』1139号)には、太田道誉の働き掛けで「(佐竹)義重・(蘆名)盛氏一和」が進んでいたことや、「東方之衆」が相州北条氏政の軍勢を迎え撃って退けたことが示されているが、この時点ではまだ謙信と「東方之衆」の連帯の再開にまでは至っていなかったであろう。
◆ 上越市史編纂委員会編『上越市史 別編1 上杉氏文書集一』(上越市)1054・1055号 上杉謙信書状写、1056号 上杉謙信書状、1057号 上杉謙信書状写、1100号 神保覚広等四名連署状、1101号 鰺坂長実書状、1102号 長尾景直・鰺坂長実連署状写、1105号 上杉謙信願文、1107号 寺崎盛永・毛利秀広連署状、1108号 山本寺定長書状、1109号 鰺坂長実書状、1110・1111号 直江景綱書状、1114・1124号 上杉謙信書状、1139号 上杉謙信書状、1175・1176号 上杉謙信判物写
◆『富山県史 史料集Ⅱ 中世』(富山県)1788号 元亀3年9月24日付平加賀守宛上杉謙信書状