越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

訂正【3】

2020-10-21 18:12:52 | 雑考

 新たに本庄繁長宛ての長尾景虎書状が見つかったというので、渡邊三省『本庄氏と色部氏』を読み直していたところ、当ブログの越後国上杉輝虎の略譜【19】において、文書の解釈に誤りがあることに気が付きました。

 永禄6年11月下旬に上杉輝虎が関東へ向けて出馬したところ、深雪のために進軍が滞り、越後国刈羽郡の鯨波の地で宿営中の先行軍において、揚北衆の色部修理進勝長と揚南衆の平賀左京亮重資の間で小旗の意匠を巡る相論が起こり、輝虎の意を受けたであろう河田豊前守長親は色部勝長の主張に基づいて、平賀重資の説得に努めると、翌月中旬までに平賀側が小旗の使用を止めることで決着がついた。という事態のなかでのことになります。

 永禄6年12月8日付平賀助四郎重資(左京亮)宛河田長親書状(『上越市史 上杉氏文書集』361号)における冒頭部分の「仍小旗之儀、以前如申、色部事、有子細従 屋形様為被下置文候、」を、小旗の一件については、以前に申し伝えたように、色部方の申し立てにより、屋形様(上杉輝虎)が置文を発せられたこと、と解釈しましたが、『本庄氏と色部氏』の62頁には、「
屋形様より下し置かるる文(紋)に候、」という釈文で、色部が輝虎から授けられた紋である、という意味が書かれていました。自分の解釈は全くの誤りでありましたので、当該部分を、色部の紋は特別な理由により、屋形様から下されたものであること、というように改めます。


※ 越後国(山内)上杉家の年寄である河田長親は、当時、上野国沼田城の城代も任されていたが、常駐ではなかったので、越府に戻って輝虎の側近としての役目を果たしていることもあり、恐らくこの年の秋から冬にかけては在府していて、輝虎が関東遠征を催すと、先行軍の主将を任されたのだろう。


◆ 渡邊三省『中世武士選書 第9巻 本庄氏と色部氏』(戎光祥出版)◆『上越市史 別編1
上杉氏文書集一』359~365号

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