越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

長尾景虎~上杉輝虎期に発給された謙信文書のいわゆるa型花押と年次比定【2】

2019-02-08 20:26:21 | 雑考

 前項では、前嶋敏氏の『上杉輝虎発給文書の花押とその変更』で示された輝虎a型花押の分類から、輝虎期に据えられたa3型花押とa4型花押の使用時期は、永禄11年で区切れると考えましたが、これに則さない例外的な文書について検討します。


【史料1】永禄7年8月6日付広田式部大輔直繁宛上杉輝虎書状(782号)
来札披見、(上杉)憲盛其方以意見使者被越候、因茲、使被相添祝着候、彼方数年、不思義相隔候ぬ、無私儀候間、向後別可令入魂候、猶以内義之段、被相届尤候、先段如申越候、和睦任覚悟候上、今日六、当府迄(遂ヵ)出馬候、路次少不可有遅々候、有其心得早速参陳尤候、深谷有同陳可被相談儀千言万句極候、猶口上申含候、恐々謹言、
   八月六日       輝虎(花押a3)
      広田式部太輔殿

 当文書を『謙信書公集』は永禄12年に年次を比定しており、これに諸史料集も従っている。
 同年6月に一旦、越・相同盟が成立すると、それに伴い輝虎は関東味方中の広田式部大輔直繁・木戸伊豆守忠朝兄弟に対し、これ以前は、越後国上杉陣営と相州北条陣営の間を変転とし、当時は後者に属していた深谷上杉 憲盛(左兵衛佐を称したか)を自陣営へと帰参させるように指示しており、その役目が果たされたことが分かる上杉憲盛、木戸忠朝書状(772~774号)といった一連の文書に続くものであるのは、当文書における「彼方(上杉憲盛)数年、不思義相隔候ぬ」「向後別可令入魂候」「深谷有同陳…」といった文言によって明らかであろうから、永禄12年の比定に誤りはないものと思われる。
 ところが、当文書には永禄11年以前に使用されていた輝虎のa3型花押が据えられているのである。


※ 当文書には「今日六、当府迄出馬候」と書かれているわけであり、当事者の上杉輝虎が「当府」と言っているのだから、越府と考えるのが自然であろう。しかしながら、輝虎は関東味方中の広田・木戸兄弟へ「参陣」を求めており、相州北条軍と激しく争っている最中の永禄7年に、ほぼ相州北条家の領国と化している武蔵国の国衆である広田・木戸兄弟を越府へ呼び寄せるような状況にはなかったし、そもそも、越府の主である輝虎が「当府迄出馬候」と言っていることに違和感を覚えたので、越後国上杉家の関東における拠点を指している場合も考えてみたが、上野国沼田城や厩橋城を「当府」と呼んだ形跡はなかった。
 そこで、ほかの可能性を当たってみたところ、永禄12年8月18日付千葉胤富宛北条氏政書状(『戦国遺文 後北条氏編』1299号)には「輝虎去六日越府出張必定候、」と書かれており、8月6日に輝虎が越府を出立する予定であったことが分かった。そうなると、「当府迄出馬候」は、相州北条家へ伝えていた通りに関東へ向けて出馬したものと解釈できることから、「迄」の字は、草書体が似ている「遂」と読むべきではないだろうか。

※ 当時、広田直繁はすでに「出雲守」を通称していたが、輝虎は「式部大輔」と書き続けており、永禄13年2月28日に発給した書状から、ようやく「出雲守」と宛名書きしている(885号)。


【史料2】永禄9年正月7日付小貫佐渡守頼安宛上杉輝虎書状写(546号)
   ○前欠
不被違約、去五日、(佐竹)義重出張之由、併其方稼故感悦候、陣所何方候哉、兎角早々有同陣、万端意見候様諷諫任入候、為其為迎開発中務丞差越候、猶巨細彼口上申含候間、不能一二候、恐々謹言、
  追梅紅斎(岡本禅哲)・和田安房守(昭為)江も可申候共、返
  札可為造作候間、無其儀候、其方心得頼入候、以上、
    正月七日       輝虎(花押a4影)
      小貫佐渡守殿

 当文書を『越佐史料』などが年次を永禄10年に比定したのは、常陸国衆の佐竹次郎義重が正月5日に出陣したという記事と、正月28日付佐竹義重宛上杉輝虎書状写(547号)に「今朝廿八河西着陣」とあり、上野国沼田城に在陣中の輝虎が、この日の朝に佐竹軍が下野国河西地域(鬼怒川以西)まで進軍してきたとの情報を得たという記事を関連付けたからではないだろうか。
 しかしながら、当文書には永禄11年から使用された輝虎のa4型花押が据えられているとなると、発給された年次が永禄11年から同13年(元亀元年)のいずれかの年であることも考えてみなければならない。
 そうなると、当文書における輝虎が、自陣への合流を求めている佐竹軍を先導させるために旗本衆の「開発中務丞」を佐竹次郎義重の許へ派遣していることと、関東在陣中であることに留意するべきであろう。
 この二点を踏まえて検討してみたところ、11年の当該期には本国で北陸遠征を控えており、その後に予定を変更して関東へ出馬するようなことはなかった。12年の当該期には、佐竹義重の許へ「開発中務少輔(丞)」を派遣している(670号)が、それは、反乱を起こした越後奥郡国衆の本庄弥次郎繁長を攻めている最中の越後国村上陣からであり、これも関東へは出馬していない。残る13年の当該期には関東在陣中であり、永禄12年冬に関東味方中の同陣を呼び掛けるため、重臣の松本石見守か「開発」を上野国新田の地へ派遣しようとしていたので(822号)、13年に比定できるかと思いきや、この年の春に佐竹義重とその客将である太田道誉・梶原政景父子を説得して佐竹軍を先導するために太田父子の許へ派遣されているのは、「開発中務丞」ではなくて、やはり旗本衆の「大石右衛門尉」(846・870・892号)であった。
 こうなると、13年の佐竹義重は全く参陣してくる気配がみられなかったのに対し、10年には下野国まで進陣してきたのは確かであるから(『戦国遺文 後北条氏編』1005号)、『越佐史料』などによる10年の比定に誤りはなかったようである。


【史料3】永禄9年4月24日付河田豊前守長親宛上杉輝虎書状写(456号)
其元之模様余無心元之間、金津新兵衛尉・村上方・桃井・堀江駿河守・新発田右衛門大夫・喜平次(長尾顕景)者共為先、長井可被為陣取候哉、其地人衆差越得、倉内之備計相見之候間、従長井当地迄人数置続、以其惣之後詰成之度候間、併如何可有之候哉、丹後守(北条高広)意見相尋、急度可申越候、謹言、
    四月廿四日      輝虎(花押a4影)
      河田豊前守殿

 当文書の発給年次は、書中にみえる、上杉輝虎の甥である「喜平次」こと長尾顕景(上杉景勝)が上田長尾氏の当主として文書に現れるのは、その顕景の実父である上田長尾越前守政景が横死してしまった永禄7年7月以降であり、宛所にみえる、越後国上杉家の上野国沼田(倉内)城代である河田豊前守長親が城代の任を解かれたのは、関東味方中の離反が相次ぐなか、ようやく輝虎が関東へ出て来られた同9年11月頃であるから、8年か9年のどちらかの年となる。
 当該期の前後、8年の方は、輝虎が越前国朝倉義景との盟約による北陸遠征を取り止めにしてまで、関東へ向けて出馬したにもかかわらず(452・453号)、「越国有造意」といった事態に見舞われて、上・越国境から越府へ引き返さざるを得なくなってしまい(『戦国遺文 房総編』1177号)、当文書に「其元之模様余無心元之間」とある通り、輝虎自身の不在による前線の防備が気掛かりであったと考えられるのに対し、9年の方では、まだ若年のために出陣はしていない長尾顕景が、輝虎による関東遠征に従軍して戻ったばかりの上田衆に、晩春の下総国臼井城攻めにおける戦功を称えて感状を与えていたり、帰陣して間もない輝虎は、願文を認めていたり、内政に取り組んでいたりしていて(509~511・513号)、総州経略は果たせなかったがために、関東味方中が大挙して離反するのを知るのは、もう少し先であるからか、まだ再出馬や先遣軍を繰り出すような様子は感じられない。
 しかしながら、輝虎が9年5月から7月にかけて、上野国厩橋城代の北条丹後守高広から、甲州武田軍が上野国安中方面に現れたとの急報、それは誤りであったとの続報、沼田城へ襲来するとの確報を受け(457・458・464・465号)、長尾顕景配下の上田衆に沼田城への急行、待機、また急行を指示するため、顕景の一族、重臣である大井田藤七郎・長尾伊勢守、栗林次郎左衛門尉へ宛てた書状群の初信において、輝虎は上田衆の「両度之陣労労兵」を気に掛けながらも出陣の指示を与えており、この「両度」とは、8年仲冬から9年初夏にかけて挙行された関東遠征における従軍と、当文書で指示された先遣軍の一手として関東に在陣したことを指しているのか、それとも、関東遠征から帰陣したばかりであるのに、また越山することになってしまうことを指しているのか、前者であれば、文句なしで9年に比定できるのだが、この書状群を読んだ限りでは、当文書の受給者である河田長親が沼田城にはおらず、本国に滞在していたようなので、どうにも判断が難しい。そもそも、予定通りに先遣軍が出陣したのかも分からない。
 いずれにしても、当文書には永禄11年から使用された輝虎のa4型花押が据えられており、輝虎は8年にはa・e1型、9年にはe1・e2型を使用していたようであることから、取り合えず当ブログでは『越佐史料』『上越市史 上杉氏文書集』などの年次比定に従って永禄8年の発給文書として引用した。
 ただし、早稲田大学図書館所蔵の当該文書写の画像を見た限りでは、この花押影は精巧さを欠いており、実際はa3型が据えられていた可能性もある。


※『越佐史料』『上越市史 上杉氏文書集』などでは、上杉輝虎が大井田藤七郎・長尾伊勢守・栗林次郎左衛門尉や河田豊前守へ宛てた書状の年次を永禄8年に比定、あるいは仮定されているが、黒田基樹氏の「上杉謙信の関東侵攻と国衆」では、上杉輝虎のe2型花押の使用時期により、永禄9年の発給文書とされていることから、こちらに従った。


【史料4】永禄10年3月15日付白川七郎義親宛上杉輝虎書状写(503号)
雖未申通候、馳一翰意趣、佐竹義重累年申談、此度同陣悉皆表裏之刷、兼日之入魂相違候、然、那須資胤懇意之由候間、輝虎儀向後可申合候、御同意可為本望候、盛氏父子(蘆名止々斎・同盛興)不被存等閑候、猶北条丹後守(高広)可申候、恐々謹言、
    三月十五日      輝虎(花押a3影)
      白川七郎殿

 当文書を『越佐史料』『新潟県史 資料編』は永禄10年に比定しているが、『上越市史 上杉氏文書』は同9年に比定している。後者が年次を改めたのは、すでに10年には越後国上杉家側の取次であった北条丹後守高広が主家から離反し、相州北条・甲州武田陣営に属している時期であったからであろう。
 しかしながら、書中に「佐竹義重累年申談」とあるのは、常陸国衆の佐竹次郎義重の父である佐竹右京大夫義昭が永禄8年に若くして亡くなるまで、この佐竹義昭が佐竹氏の当主であったのだから、上杉輝虎と佐竹義重がやり取りするようになって、まだ一年も経過しておらず、とても9年の状況を表しているとは考えられなかった。
 当文書では輝虎が佐竹氏と対立する勢力と提携しようとしているわけであり、その時期を当たってみると、永禄13年正月26日付梶原源太宛上杉輝虎書状(870号)によれば、輝虎が佐竹氏の客将である梶原源太政景に対し、味方中の佐竹義重が一向に参陣してこないので、待ちくたびれていることや、このまま佐竹軍が同陣しないのであれば、反佐竹勢力と手を結ぶしかないことを伝えているので、まさしく輝虎が反佐竹勢力の白川結城七郎義親と提携するための交渉を始めるような状況であった。さらには、同年3月28日付柿崎和泉守・山吉孫次郎宛北(佐竹)義斯書状写(901号)では、佐竹氏側は弁明するための使僧を関東在陣中の輝虎の許へ派遣し、上杉家側の取次である柿崎景家・山吉豊守と北条高広が協力して輝虎へ取り成してくれることを期待しており、当該期には北条高広の上杉家帰参が認められていたようである。
 こうしたことから、当ブログでは永禄13年の発給文書として引用したわけであるが、当文書には永禄11年以前に使用されていた輝虎のa3型花押が据えられているのである。そして、これと関連する4月7日付白川七郎宛上杉憲政書状写(557号)では、当時の憲政は「光徹」と号していたにもかかわらず、「憲政」と署名がなされており、いずれも特例な文書であったと考えられなくもない。それは、この上杉輝虎と白川義親の初交渉は、憲政書状によると「密事」であったから、敢えて輝虎はa4型花押ではなくてa3型花押を据えたのかもしれないし、憲政は通りの良い実名を書いたのかもしれない。
 ただし、憲政の署名については、何分、写された文書であるから、実際は法号で書かれていた可能性もある。


【史料5】年次未詳7月23日付安田惣八郎顕元宛上杉輝虎一字状(996号)
今度隠遁之供神妙候、依之、一字望候間、顕出候、当家有謂字之由、仰出候也、仍如件、
    七月廿三日      輝虎(花押a4)
      安田惣八郎殿

 上杉輝虎が「隠遁」を決意するほどの強烈な出来事があった年といえば、輝虎との盟約によって関東へ下向してきた関白近衛前久と決別した永禄5年か、輝虎の上洛を切望していた将軍足利義輝が横死してしまった同8年が考えられる(337・347・459・460号)。
 ところが、当文書には永禄11年から使用された輝虎のa4型花押が据えられているのである。
 そこで、輝虎が、同盟国の相州北条家から養子を迎え、有髪のまま出家して謙信と号した元亀元年の可能性を探ってみたが、当該期には、輝虎の発給文書こそ見当たらないが、側近の山吉孫次郎豊守を通じて、北条家側と当秋の関東遠征における同陣を巡って交渉しており(920号)、「隠遁」しようとしていた様子は窺えなかった。 


 以上、永禄11年を境に使用期間が区切られる上杉輝虎のa3型花押とa4型花押が据えられた文書には一部の例外があるので、それらの文書について検討してみました。
 永禄年間の後期にa3型とa4型が混在していることについて、どうしてなのか、はっきりしたことは分かりませんが、自分の試みた年次比定が全くの見当違いでなければ、ここで示しました事例以外にも、前嶋氏が示されているように、今のところ長尾景虎の最初の発給文書である本成寺へ宛てられた安堵状写にはa4型花押が書き写されていたり、輝虎の一字状(名字書出)には特異な花押が据えられていたりしますし、気が付いたところでは、謙信期になりますが、甥の長尾顕景(上杉景勝)へ宛てられた書状に据えられている花押の一部に書き忘れがあったりしていますので、当然ながら輝虎とて数種類ある花押を取り違えることもあったでしょうし、当事者以外はa3型花押とa4型花押の区別があるなど知る由もなかったはずでしょうから、時には誤った花押が据えられたり、写されてしまったりした場合があったのかもしれません。


 【Ⅰ】   【Ⅱ】   【Ⅲ】


※【Ⅰ】の上杉輝虎が揚北衆の色部弥三郎顕長へ宛てた名字書出に据えられた花押は、a型とd型が混ざっている異質のものである。

※【Ⅱ】と【Ⅲ】の謙信花押を見比べると、【Ⅱ】の方は左側上部で結ばれた「へ」の字のような部分には、上に打たれるべき跳ね上げた点と右側の一段目から斜め下に引かれるべき曲線が書き忘れられている。


前嶋敏「上杉輝虎発給文書の花押とその変更」(『新潟史学』第73号)、黒田基樹「上杉謙信の関東侵攻と国衆」(『戦国期東国の大名と国衆』岩田書院)◆『越佐史料 巻四』◆『上越市史 別編1 上杉文書集一』337・347号 近衛前久書状(影写)、452・453・457・458号 上杉輝虎書状(写)、464・465号 上杉輝虎書状、459号 朝倉景連・山崎吉家連署状、460号 朝倉景連書状、509号 長尾顕景感状、510号 長尾顕景感状(写)、511号 上杉輝虎願文、513号 上杉輝虎朱印状(写)、557号 上杉憲政書状(写)、670号 上杉輝虎書状(写)、772・773号 上杉憲盛書状、774号 木戸忠朝書状、822・840・846・870・885・892号 上杉輝虎書状(写)、901号 佐竹義斯書状(写)、913号 北条氏康書状、914号 上杉輝虎書状、920号 山吉豊守書状案、940号 上杉謙信書状 ◆ 『上越市史 別編1 上杉氏文書集一 別冊』1号 長尾景虎安堵状、445号 上杉輝虎名字書出 1456・1459号 上杉謙信書状 ◆『戦国遺文 後北条氏編』1005号 北条氏政書状写 ◆ 『戦国遺文 房総編』1177号 千葉胤富書状 ◆〔早稲田大学図書館 古典籍総合データベース〕上杉輝虎書状写
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする