越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

越後国上杉家と佐渡国本間一族

2017-03-24 22:25:30 | 雑考

【史料1】本間下野守宛上杉輝虎書状
芳書殊更太刀一腰面一枚給候、快然之至候、猶河田豊前守可申送候、恐々謹言、
    七月廿日       輝虎(花押a影)
      本間下野守殿

 越後国上杉輝虎(号謙信)は、永禄6年7月18日に書き表した願文のなかで、「殊能・越・佐三箇国手裡同前」と述べており、能登・越中・佐渡の三ヶ国は分国同前と認識していたらしい。当時、佐渡国を実効支配する本間一族は、相模国愛甲郡依知郷を本貫とした武蔵七党の横山党海老名氏流の鎌倉御家人に始まり、佐渡守護大仏北条氏の被官となった一族が承久の乱後に守護代・地頭職を得ると、文永・弘安の役の混乱を経たのち、生活の安定を求めて佐渡国雑太郡に入部し、そこから国内に広く分派したものである(苗字を与えられて一族に列した在地の者もいる)。かつて輝虎の実父である越後守護代長尾為景が、越後国へ攻め込んできた関東管領山内上杉顕定(号可諄)に敗れると、佐渡国へ逃れて再起を図ったが、その際に本間一族(羽茂本間一族の三河守高信の妻は為景の妹という伝承がある)が援助していたり、大永4年に羽茂本間氏(雑太本間氏から分かれたという)と久知本間氏(河原田本間氏から分かれたという)の間で激しい抗争が起こると、同7年4月に越後守護上杉家の一族である上条播磨守憲定(定憲)が仲裁に入ったりしている(その後、久知本間氏の勢力が弱まり、国仲の河原田本間氏と南部の羽茂本間氏の勢力が強まったという)。よって、輝虎と本間一族の関係が気になるところであるが、残念ながらほとんど見出せない。ここに掲げた【史料1】の通り、永禄5年から元亀元年の間に輝虎と本間下野守が音信を交わしているのが唯一である。天正10年4月24日に越後国上杉景勝は、江(尾)州織田信長との対決を前に、佐渡国本間一族の対馬守(羽茂本間高季)・但馬守(新穂本間氏か)・山城守(河原田本間氏。実名は高統と伝わるが確証はない)・下野守(不明)・帰本斎(潟上本間氏)らと交信して提携を結んでおり、ここに所見される下野守は、恐らく輝虎と交信した下野守本人か後継者であろう。


【史料2】某為直書状
御使札之趣、令拝領忝奉存候、仍当春越中口御出馬、万方御静謐之儀、於吾等大慶不可之候、随馬介一下被懸御意候、外聞実儀歓悦無極奉存候、即従是真羽十尻串貝三千奉進上之候、於巨細、御使者申達候、此旨御披露所仰候、恐惶謹言、
    五月九日       為直(花押)
    屋形様
       参御尊報


【史料3】某信濃守泰高書状
如仰未申通候処、預御珍簡、恐悦至極候、随今度越中表有御出馬、過半被属御存分、先以御帰陣之由、太慶不斜候、殊当国珍畳之虎皮送給候、則拝領此御事候、雖微少之至候、巻物竹柄二百挺致返進候、向後互可申談候、御啐啄所希候、心緒御使者可有演説候、恐々謹言、
    五月十日       信濃守泰高居判
     宛所ナシ


 この【史料2・3】は、『上越市史 別編1』が元亀4年にそれぞれ仮定・比定している文書であり、日付と内容からして発給者の両名は近しい関係にあると思われる。【史料2】の「為直」は人物が特定されておらず、【史料3】の「信濃守泰高」は〔謙信公御書集〕に倣って大宝寺氏と特定されている。しかしながら、出羽国の大宝寺氏の一族に「信濃守泰高」を名乗る人物は見当たらない。そこで越後国上杉家と交流のある両名に該当する人物を他家に探してみたところ、「為直」と一致する人物は探し出せなかったが、「信濃守泰高」については、天正10年6月12日に上杉景勝が、織田信長横死の情報を伝えるため、本間一族の山城守・対馬守・但馬守・信濃守(雑太本間氏)・弥太郎(季直。泉本間氏か)・下総守(久知本間時泰)・帰本斎へ宛てて書状を送っており、ここに信濃守として所見される雑太本間氏は、系譜類では実名が泰高と記されていた。これに従って「信濃守泰高」を本間氏と考えるならば、長尾景虎(上杉輝虎・謙信)が史上に現れる直前、天文12年7月20日に本間貞直なる人物が朝廷から佐渡守の受領名を与えられており、この本間佐渡守貞直の系譜に連なる河原田本間氏(かなり前から惣領家の雑太本間氏を凌いでいた)の通字は「直」の字であることから、いずれの人物も本間氏である可能性が高いのではないか。ところで【史料2・3】は、謙信が越中国から帰陣したことに祝意を表している内容により、それぞれ仮定・比定されたものと思われるが、果たして妥当であろうか。【史料2】には「当春越中口御出馬」とあるが、元亀4年の謙信は前年の初秋に越中国へ出陣すると、粘る敵軍を前にして越年するほかなく、ようやく初夏に帰陣したのであり、初秋に出陣した謙信の行動とは一致していないことになる。


【史料4】本間帰本斎宛上杉景勝書状
雖不能書面、令馳一翰候、疾可令返答之処、万方取篭、殊当春、越中就出馬、弥延引本意之外候、今般以村松平右衛門令申候、為一儀巻物進之候、恐々謹言、
    卯月廿日       景勝御居判
     本間帰本斎


 戦国期の例に漏れることなく起こっていた佐渡国の内乱も、どうやら謙信の一世中は鳴りを潜めていたようであるが、次代の上杉景勝期に入ると再び活発となり(いずれも惣領家を凌ぐ、国仲の河原田本間氏と南部の羽茂本間氏の対立が主因であった)、なかなか収まらなかったので、景勝は何度か調停を試みていた。よって、前述したように本間一族との交信がほとんど確認できなかった謙信期に比べ、景勝期の方が本間一族と交信している機会が圧倒的に多いことから、むしろ【史料2・3】は景勝期に発給された文書のように思われたので、【史料2】の「当春越中口御出馬」と同じ状況を探してみたところ、ここに掲げた【史料4】の通り、天正9年に景勝が潟上本間帰本斎へ送った書状の「当春、越中就出馬」が一致していたことから、【史料2・3】は天正9年に比定するべきであろう。こうなると、【史料2・3】を発給した両名は本間氏と考えても良いのではないだろうか。
 天正17年の晩夏から初秋に掛けて、前年の上洛時に関白羽柴秀吉から佐渡経略の認可を受けていた景勝は、自ら渡海して違背者たちを滅ぼすと、協力者の潟上・沢根本間氏でさえも越後国へ移し、家宰の直江山城守兼続に代官支配させた(与板衆の河村彦左衛門尉吉久が代官を務め、上田衆の黒金安芸守尚信・清水内蔵助、もとは謙信旗本であった富所伯耆守、同じく謙信旗本であった小中彦右兵衛尉(上野国沼田城衆)の与力に配されていた鳥羽十左衛門尉らが各郷の拠点に在番した。のちに在番衆は数名が入れ替わっている)。


※『上杉家御年譜』の天正5年4月条には、佐渡国において反逆者が各所で蜂起すると、所司代の蓼沼右京亮は越府へ急報を発したのち、防戦むなしく敗死してしまったので、越後国神洞城主の甘粕藤右衛門尉景継を指揮官とする軍勢が派遣されて一揆を鎮圧したとあるが、そうした事実は今のところ確認できない。そもそも甘糟景継は景勝の直臣であり、当時は蒲原郡菅名荘の神洞城主を務める立場にも、謙信の部将として軍勢を指揮する立場にもなかった。


『上越市史別編1 上杉氏文書集一』344号 上杉輝虎願文、995号 上杉輝虎書状(影写)、1155号 為直書状、1156号 大宝寺泰高書状 ◆『上越市史別編2 上杉氏文書集二』1890号 武田勝頼朱印状、2117・2037号 上杉景勝書状(写)、2360号 上杉景勝書状、2362号 上杉景勝起請文、2363号 上杉景勝起請文(写)、2393号 上杉景勝書状(写)、2985号 本間季直書状(写)、2997号 本間高秀書状(写)、3281・3283・3284・3286号 上杉景勝書状(写)、3306~3311号 上杉景勝朱印状(写) ◆『新潟県史 資料編5 中世三』3096号 大般若波羅密多経奥書、3134号 後奈良天皇口宣案 ◆『上杉家御年譜一 謙信公』◆『新潟県史 通史編2 中世』◆『日本城郭大系7 新潟・富山・石川』(新人物往来社)
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