越後長尾・上杉氏雑考

主に戦国期の越後長尾・上杉氏についての考えを記述していきます。

芸州毛利家からの使者

2016-08-03 16:42:38 | 雑考


 『陰徳太平記』巻第四十九の「吉川元春被発使於武田上杉 佐々木定綱 信玄、謙信話之事」によると、元亀3年春、芸州毛利家は甲州武田信玄と越後国上杉謙信のそれぞれから、昨年と一昨年に使者が到来したにもかかわらず、当主の毛利元就の病中と病死によって返礼が先延ばしになっていたことから、このたび、現当主の毛利輝元(元就の嫡孫)の叔父である吉川駿河守元春が、返礼は勿論のこと、甲・越両国の政道と軍略の実態を知るため、「佐々木源兵衛定綱」を召し出し、使者として両国へ派遣したという。

 この佐々木定綱は、甲斐国で山縣三郎兵衛(昌景)を奏者として武田信玄と対面したのち、越後国に到来すると、河田豊前守(長親)の取次をもって上杉謙信と対面した。その時の様子については、「時節、看経シテ御座シ、檀上ヨリ直ニ出逢ヒ給ヒケルガ、如何思ヒケン、山伏ノ躰相ニテ、大禅門頭巾篠懸ケニ太刀シツカト差堅メテ、立チ出ラレタル形勢ヲ見レバ、音ニ聞コエシ大峰(大和国大峰山)ノ五鬼、葛城高天(同金剛山の高天原)ノ大天狗ニヤト、寒毛卓竪スル許リ也(身の毛もよだつ思いをした)」といい、また、謙信から二尺七寸はある青江(備中青江派)の太刀を賜ったという。


【史料】天正5年4月23日付加賀国一向一揆旗本中宛小早川隆景・吉川元春書状(『戦国遺文 瀬戸内水軍編』508号)
此境之儀、至播州令乱入候刻、三木・明石・高砂対此方一味候、相残敵意之者取囲候条、不可有落去程候、同諸警固至大坂表差上、津々浦々令放火候之処、信長父子三人、彼表馳向、日夜之干戈、毎篇此方大利而已候、如此引下、摂・播之間釣留候之条、其表之儀、謙信被仰談、御手合此時候、於延引者不可有其曲候、此度従 公儀雖可被 仰出候、御座所程遠候間、先為両人申述候、猶委細者曹源寺・佐木源兵衛尉可申候、恐々謹言、
    卯月廿三日      元春(花押)
               隆景(花押)
   加州御旗中
        御宿所


 元亀3年春には『陰徳太平記』がいうような芸州毛利家と越後国上杉家が通交した事実は認められないが、天正4年春に謙信が加賀一向一揆と和睦し、更に今夏には濃(尾)州織田信長との抗争の末に備後国鞆へ御座を移した足利義昭を支援する芸州毛利家・摂州大坂本願寺らと結んで反信長包囲網が形成されており、【史料】によれば、天正5年4月下旬に芸州毛利輝元は謙信との連携を図るため、叔父の吉川駿河守元春と小早川左衛門督隆景の連署書状を携えた使節を加賀一向一揆の許へ派遣し、このたび毛利軍が播磨国へ攻め入ったところ、当国諸士が味方に属してきたこと、帰服してこない諸士の城を取り囲んでおり、間もなく決着がつくこと、そうした一方で、諸軍勢を摂津国大坂表へ攻め上らせて津々浦々を焼き払ったところ、信長父子三人が立ち向かってきたことから、これを迎え撃った諸軍勢は昼も夜も戦い続け、ことごとく大勝したこと、釣り出した信長を摂・播両国の間に釘付けにするので、謙信と御相談し、その方面から織田領へ攻め上られるべきこと、この好機を逃しては気勢がそがれること、本来ならば公儀(足利義昭)が仰せになるところ、御座所からは程遠いので、両人が申し述べること、これらを加賀一向一揆の旗本中に詳しく口述した使節のひとりが佐木(ママ)源兵衛尉である。

 この佐木源兵衛尉は、『陰徳太平記』の佐々木源兵衛定綱と同一人物であろうことと、その後は加賀国から越後国へ向かったであろうことは想像に難くない。


※ 佐々木源兵衛尉は、必ずしも毛利氏あるいは吉川氏の家臣とは限らない。


◆『戦国遺文 瀬戸内水軍編』(東京堂出版)508号 小早川隆景・吉川元春連署書状
◆『上杉謙信ものしり史伝 孤高の戦国武将の謎と実像』(桑田忠親 廣済堂)
◆ 国立国会図書館デジタルコレクション『陰徳太平記』合本 三

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