ホリスティックヒーリング宙『心の扉を叩いてみたらきっと何かが見えるはず聴こえるはず』

ホリスティックヒーリング宙(sora)のヒーラー&臨床心理カウンセラー株本のぶこが心・心と身体について綴っています

余命と与命

2010-09-27 06:51:36 | 心・身体・癒し

先日、テレビで余命告知の問題を取り上げた番組を見た。

統計によると、余命告知の半分以上が癌によるもの、次に心疾患となっていた。

番組では、ある大学病院の教授を取材、教授の担当する患者さんが癌だとわかった段階で、病状説明と一緒に余命告知をどういう風にするのかの話を聞いた。
欧米では、余命を告知するのは当たり前のことと認識されているそうだが、日本の場合は、まだそういうところにはいっていない。

教授の話によると、診察をしてきて患者さんの性格をある程度わかっての告知ということになるそうで、患者さんの家族とも相談の上、個人個人、告知したほうがいいか、告知しないほうがいいか判断するのということだった。

告知をされた患者さんは、精神的にダメージを受けるわけだが、ある一定の段階を踏むという。否定から入り悲観、怒りなどを経て、最期には諦念という境地に入るというのが一般的に言われていることだそうだ。

しかし、それもやはり個人差があり、否定から一気に諦念にたどり着くひともいれば、最後まで諦念の境地にはたどり着けず、無念の思いを抱えたまま最期のときを迎えるひとも現実にはいるという。

番組では何人かのがん患者さんにインタビューをしていたが、あるひとりの女性の話が印象的だった。

その女性はまだ若く、親御さんも健在ということだった。あるとき突然、女性が癌を告知され、余命半年から一年と医師に宣告されたという。しかし、その後の抗がん剤治療が候をそうしたのか、女性は元気を取り戻し、余命を告知された一年を無事に乗り越え、今は3年が過ぎたそうである。

このことで余命とは、果たして本当に信用していいものなのかということが、話されていた。たしかに過去の同じような症例を参考に、データーに基づいてのことだろうが、だからといって、それがすべて正しいとは言い切れない。そのときの外的状況や、本人のコンディションによって症状には変化が見られるのが普通である。

ましてや余命告知となれば、単なる病状報告とはわけが違う。
それに関して、先に紹介した女性の患者さんは、ある程度治療をおこない、気力が回復した段階で、「実はあなたは・・・」という感じで告知を受けられたらいいと話していた。そうすることにより、気力が衰えずにいられたといい、もし最初に告知されていたなら、過酷な治療に耐えられたかどうかわからないと話していた。

実際、この情勢は余命半年と家族は告げられていたが、抗がん治療が功を奏して現在、3年目だという。このことからも生命というものが必ずしも告知どおりにいくとは限らないことは明らかで、この問題の難しさを物語っていた。

大変興味深かったのは、ホリスティックな考え方をベースに患者さんと向き合っている、ホリスティック医学協会の帯津先生が、「人間が人間に余命を告知すること自体、大変傲慢な行為である」との意見を話されていたことだった。

先生によると、「余命は余命=あまった命ではなく、与命=与えられた命」だそうだ。

命に余ったものなど何もない。そのひとがそのひとの生命を生きている、そのひとに与えられた生命の時間を生きているのだ。

本当の意味の「よめい」とは与えられた命=与命と捉えるべきなのかもしれない。

 

 

ホリスティックカウンセリング『宙』(sora) http://www.kokoro-sora.com



ブログ『心の扉を叩いてみたらきっと何かが見えるはず聴こえるはず』

http://blog.goo.ne.jp/kokoro-tobira-sora



ブログ『ボディフォーカスト・アプローチ』 

http://blog.goo.ne.jp/kokoro-sora-karada


ブログ http://ameblo.jp/cocoro-iyasi-sora


元気読本WEB 身体と心の不思議な関係』

http://www.genki-book.jp/columns/mental/-22-005534.php