goo blog サービス終了のお知らせ 

Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

塩野七生「コンスタンチノープルの陥落」

2011-04-06 19:37:56 | 雑記
先日の地震で、棚の上に乗っていた文庫本がまとめて落ちてきました。余震もあるだろうから、そんな危険なものは処分するしかないと割り切って、10年ほど前に歴史小説を中心に乱読していた本を捨てました。一応捨てる前にタイトルだけは確認して、その本の中で印象的だった塩野七生著の「コンスタンチノープルの陥落」を思い出したので記事にします。

コンスタンチノープルの陥落とは15世紀の東ローマ帝国の滅亡のことで、1世紀頃は地中海の周りをすべて支配するほどの栄華を誇ったローマ帝国が、ついにオスマントルコの侵略で終焉を迎えた、西洋諸国に大きなショックを与えた事実です。

コンスタンチノープル(現イスタンブール)はヨーロッパ最東端という立地条件の良さで、商人の都でした。このコンスタンチノープルを重視していたのが、当時地中海の交易に支配的役割を占めていたベネチア共和国で、当時地中海の航行は手漕ぎ船のガレー船で行っていたため中継基地が必要で、アドリア海沿いに点々と支配地を持っていました。

この物語の作者は、当時のベネチア共和国の記録好きの習慣に着目して、ベネチアでは東ローマ帝国が滅亡してオスマントルコがコンスタンチノープルを支配した場合の対策が、現実の80年も前から想定されていたという記録を引用します。東ローマ帝国はいつ滅んでもおかしくない存在だったのですが、実際にトルコに攻められたときは知恵と工夫でそう簡単には落城しませんでした。

トルコが攻めてくるであろう、陸側の境界線には今も残る3重の石垣が築かれ、いくら物量作戦で攻めてくるオスマントルコにとっても高い壁でした。海から攻めるのが近道に思えますが、東ローマ帝国は街の中心部に続く金角湾の入り口に何重もの鎖を張ります。

当時の手漕ぎ船ではこの鎖を突破することは難しく、当時日の出の勢いだったオスマントルコは予想以上の苦戦を強いられます。そんなときにオスマントルコの軍師が考えついた策は、コンスタンチノープルの反対側にある山を占領して、船を山越えさせて金角湾の中に入れることでした。

海軍力には大きな差があったこの両者の対決はこれで決着がつきました。その後、オスマントルコはヨーロッパの東半分を支配するほどの大帝国になり、ハプスグルク王朝のオーストリアのウイーンを包囲するほどの軍事力を見せます。それが、アジアとヨーロッパにまたがりながらヨーロッパは3%ほどしかない現在のトルコ共和国が、今でも自分たちはヨーロッパと主張する理由かもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする