先日、近隣にある小学校の児童たちが近隣の「町探検」で当神社にやってきました。
子供たちの前で榊を切り、各自が紙垂を折って玉串を奉製しました。
その玉串を神前に捧げ、正式参拝したのち、参拝者の方々に配慮しながら、神楽殿の清掃をしてくれました。
第一次安倍内閣において教育改革の声が高まりました。
当時、「教育とは何か」がよく論じられたと記憶します。
学校教育は、知育・徳育・体育と、三つの「育」を掲げているにもかかわらず、どうも「知育」偏重が進んできたように思います。
これは、大いに反省すべき点でしょう。
さらに、個人の権利尊重が過ぎれば、家庭・地域社会の構造そのものに大きな変化をもたらします。
これは「体」と「徳」を育む場を追いやって行くことにつながりかねません。
知恵とは、知識を基礎に人生体験をそれに重ね、心と体のバランスを取って人に恵みを与えることではないでしょうか。
これこそ徳育、体育の中核をなすものでなければならないと思います。
知識はあっても、人を導く「知恵」の乏しい社会は、豊かとは言えないでしょう。
政財界はじめ、わが国全体が知識偏重に走りすぎ、その上、個人の権利が闇雲に尊重されれば、利己主義が蔓延し、やがて社会は目標を失ってしまうでしょう。
人生を重ねていくうえで、知恵老生み出す努力を、進めてほしいものです。
子供たちの前で榊を切り、各自が紙垂を折って玉串を奉製しました。
その玉串を神前に捧げ、正式参拝したのち、参拝者の方々に配慮しながら、神楽殿の清掃をしてくれました。
第一次安倍内閣において教育改革の声が高まりました。
当時、「教育とは何か」がよく論じられたと記憶します。
学校教育は、知育・徳育・体育と、三つの「育」を掲げているにもかかわらず、どうも「知育」偏重が進んできたように思います。
これは、大いに反省すべき点でしょう。
さらに、個人の権利尊重が過ぎれば、家庭・地域社会の構造そのものに大きな変化をもたらします。
これは「体」と「徳」を育む場を追いやって行くことにつながりかねません。
知恵とは、知識を基礎に人生体験をそれに重ね、心と体のバランスを取って人に恵みを与えることではないでしょうか。
これこそ徳育、体育の中核をなすものでなければならないと思います。
知識はあっても、人を導く「知恵」の乏しい社会は、豊かとは言えないでしょう。
政財界はじめ、わが国全体が知識偏重に走りすぎ、その上、個人の権利が闇雲に尊重されれば、利己主義が蔓延し、やがて社会は目標を失ってしまうでしょう。
人生を重ねていくうえで、知恵老生み出す努力を、進めてほしいものです。