内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

アメニティを極小化し、セルフサービスを極大化することを基本方針として、客が自由に使える快適空間を最大化する

2024-07-21 23:59:59 | 雑感

 定山渓の「旅籠屋 定山渓商店」という処に今日は一泊する。今回の「講演会旅行」後のプラス一泊である。せっかく北海道に来たのだからとこの贅沢を自分に許した。
 札幌から定山渓への移動手段はいくつかあるが、宿泊客のみを対象とした完全予約制の送迎直通バス(無料)を利用した。これは三つの宿泊施設で共同運行しているようだ。定山渓まで50分もかからなかった。午後六少し前にチェックイン。
 この記事の一行目にそのリンクを貼った「商店」の公式サイトを見るとわかるように、普通のホテルや旅館とちょっと違ったなかなかユニークな宿泊施設である。出迎えのスタッフの対応は上々。フロントの説明も丁寧かつ明瞭。好感がもてる。
 私が予約した部屋は最大四人まで泊まれる十畳の和室。和室に寛ぐのは十年以上前に熊野を訪ねたときに泊まったホテル以来のことだ。窓からは定山渓の高からずなだらかな山並みが見えて心が和む。旅荷を解いてすぐに温泉に浸かりに行く。混んでいるかと思ったら、三人しかおらず、広い浴槽を独占して寛げた。やはり温泉はいいですね。
 このホテルのシステムを一言でいうと、アメニティを極小化し、セルフサービスを極大化することを基本方針として、客が自由に使える快適空間を最大化する、とまとめることができるだろう。具体的な詳細についてはサイトを御覧あれ。夕食時に四種飲んだ日本酒、いずれも絶品でありました。
 にわか旅行評論家としての評価は、五つ星を満点として四つ星です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


生きていくために必要なイリュージョン

2024-07-20 23:59:59 | 雑感

 今日の午後は札幌日仏協会でのトークイベントで話しました。大学及び学術機関での講演は過去にいくつか経験がありましたが、今回はそれとは異なった参加者の方々を前にしての話になるので、事前の打ち合わせの段階で、何を話したらよいのか、この企画を提案してくださった北大のM先生とも相談してテーマを決めました。「フランスの若者たちの日本〈幻想〉? 一ポップカルチャーの鏡の中で」というタイトルで話しました。
 実際の中身は、私が大学の教育現場で接している学生たちがなぜ日本に対して過度に美化された幻想を抱くのか、という問いに対する、私自身の一つの仮説的な答えを提示することでした。
 詳細には立ち入らずに簡略にその要旨を述べるならば、中等教育における日本語教育のマージナルな位置づけと大学入学制度の「平等性」とが日本幻想の母胎である、ということです。これだけではなんのことかよくわからないかも知れません。でも、今日は詳細には立ち入りません。
 フランス文化を愛してやまない方々が集う協会が企画した集会で、参加費を払ってまで聴きに来てくださった二十人ほどの方々が、このような「偶像破壊」的な私の話をどう受け止めてくださったのか、正直、よくわかりません。
 質疑応答では貴重なご質問をいくつかいただき、それには誠意をもって答えたつもりです。でも、「期待外れ」というのが大方の実のところの印象だったのではないかと感じました。実際そのとおりであるとすれば、聴きに来てくださった方たちに「ゴメンナサイ」と言うほかはありません。
 それはそれとして、このような機会をいただけたことを、そのために尽力してくださったすべての方に衷心より感謝申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


北大での講演会

2024-07-19 23:59:59 | 雑感

 今日の午後、北海道大学で講演を行った。ちゃんと数えたわけではないけれど、三〇名ほどの方が出席してくださっていたと思う。
 この講演会のお話をいただいたとき、私が一方的に話すのではなくて、参加者の方たちとできるだけインターラクティブな会にしたかった。その旨、今回の講演に招いてくださったM先生に事前にお伝えしたところ、私が2021年と2022年に『現代思想』に発表した二つの論文を事前に学生さんたちに読んでおいてもらって、それについての質問・意見・感想を講演会前に取りまとめて私に送るというアイデアを提案してくださった。
 実際の講演会では、私がまず30分余り、植物というテーマになぜ関心をもったか、個体性という概念が今どのような理由で問い直されているのか、どのような条件で動物にも「人格」を認めることができるか、という三点について、簡略に話し、論文の内容を補った上で、事前に送ってもらった質問と意見に対する私からの応答を行った。予定されていた時間は1時間半だったが、質疑応答の部分が膨らんで、結果として二時間を少し超えてしまった。
 学生さんたちから寄せられた質問すべてにちゃんと答えられたわけではないし、議論を行うところまでいかなかったけれど、司会進行をしてくださったM先生のアシストにも助けられ、いくらかはインターラクティブにできたかと思う。
 私の話がどこまで参加者の皆さんに届いたかはわからないけれど、その場で出た質問も含めて、拙論についてさまざまな質問と指摘をいただけたことが私には何よりもありがたかった。特に、このブログについての質問と感想をいただけたのは、これがはじめてのことで、しかもそのなかには私がまったく気づいていなかったことの指摘もいくつかあって、とても驚きかつ嬉しかった。
 出席してくださった皆様にここであらためて心より感謝申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


きょうから札幌

2024-07-18 23:44:54 | 雑感

 小石川植物園の正門脇の御殿坂を登りきって白山下に下っていく坂のとっつきに、住宅街にぽつんと一軒、「たこ八」という小さな定食屋さんがある。
 滞在二日目の昼、買い物帰りにふらりと入って驚く。店内の壁という壁にメニューが貼ってあるのだ。ざっと数えて五十は下らない。魚か肉をメインとした和定食のヴァリエーションが豊富。日替わりメニューの880円がもっとも安く、1000円以下の定食が十数種、一番高い定食でも1500円以下である。あまりの多さに、私のような初めての客は目移りしてしまって、すぐに決められない。
 営業時間は、週日は昼前から夜まで、土曜は夕方まで、日曜は休みとのこと。夫婦二人できりもりしている。接客はおかみさん。おそらく中国の方だと思う。日本語は流暢。とても気さくな感じ。厨房はだんなさん。黙々と調理し、もりつけている。ふたりでよくこれだけ豊富なメニューを用意できるものだと感心する。
 店内は四人がけのテーブルが七つ。混雑時は相席になる。常連さんが多いようだが、はじめてでもなんら気おくれすることなく入れる和やかな雰囲気だ。夜はお酒を飲みにやってくる人も多そうだ。ちょい飲みセットなんていうのもある。980円。
今日の昼が二回目。今日の日替わり、カニコロ&メンチカツ定食を注文。880円。この夏の滞在中、にわか「常連」になってしまうと思う。
 午後二時半羽田発のJALで札幌へ。四時過ぎ、新千歳空港に到着。札幌にはJRで5時過ぎに着き、予約してあったアパートホテルに徒歩で向かう。約十分。ホテルという名称はふさわしくなく、まったく普通のマンションの一室。1LK。25平方メートルくらい。寝室とリビングが玄関を挟んで分かれており、どちらにもドアついている。三人までは泊まれる。一人で泊まると、駅近くの普通のホテルよりちょっと安い程度だが、三人でシェアすれば安上がりだ。二口のガスレンジ、電子レンジ、炊飯器、簡単な調理器具数点、食器は数人分揃っている。冷蔵庫も高さ一四〇センチくらい。洗濯機もある。トイレと風呂は別になっている。
 予約その他、管理会社とのやりとりはメールかホテル予約サイトのチャットを使う。電話でもできるが、つながりにくいとのこと。
 外国からの旅行客で数日から一週間程度滞在する人たちにもよく利用されているのではないかと思われる。当然、客が入れ替わるたびに清掃が入っているはずだが、行き届いているとは言えない。ソファーもあるにはあるが、お世辞にもきれいとは言えず、座る気になれない。
 総合評価は、五つ星を満点として、三つ半。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「かくして「面」が「人格」となった」― 和辻哲郎「面とペルソナ」より

2024-07-17 16:49:15 | 読游摘録

 人格(person / personne)という概念の定義は難しい。その困難の理由の一つはその語源的意味と現代の用法とのほとんど矛盾した関係にある。
 もともと古代ギリシアにおいて役者が舞台上で付ける仮面を意味したペルソナがその後経た意味の変遷と拡大を、和辻哲郎は「面とペルソナ」(初出一九三五年)という短いエッセイのなかで次のように簡潔にまとめている。

この語(= persona)はもと劇に用いられる面を意味した。それが転じて劇におけるそれぞれの役割を意味し、従って劇中の人物をさす言葉になる。dramatis personae がそれである。しかるにこの用法は劇を離れて現実の生活にも通用する。人間生活におけるそれぞれの役割がペルソナである。我れ、汝、彼というのも第一、第二、第三のペルソナであり、地位、身分、資格等もそれぞれ社会におけるペルソナである。そこでこの用法が神にまで押しひろめられて、父と子と聖霊が神の三つのペルソナだと言われる。しかるに人は社会においておのおの彼自身の役目を持っている。己れ自身のペルソナにおいて行動するのは彼が己れのなすべきことをなすのである。従って他の人のなすべきことを代理する場合には、他の人のペルソナをつとめるということになる。そうなるとペルソナは行為の主体、権利の主体として、「人格」の意味にならざるを得ない。かくして「面」が「人格」となったのである。

 つまり、本来ある劇のなかの特定の役割を表していたペルソナが近代において「人格」つまり「その人を人たらしめているもの」を意味するようになったということである。もっと端的な言い方をすれば、本来面(マスク)だったものがその人の顔になってしまったのである。
 昨日まで見てきたシモーヌ・ヴェイユによる人格概念の批判のポイントのひとつがここにある。ある集団のなかでその人が演じているペルソナがその人の「心の奥底から湧き起こる叫び」を抑圧して誰の耳にも届かないようにしてしまう。そして、恐ろしいことに、ペルソナが自分だと思い込んでいるかぎり、その人自身その抑圧に気づくことができない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


夏休みオンリー・サイテーション・モード(5)「生きるのが楽しい子どもにとって自殺することが難しい以上に難しいこと」― シモーヌ・ヴェイユ「人格と聖なるもの」より(承前)

2024-07-16 09:25:57 | 読游摘録

 昨日の記事のシモーヌ・ヴェイユからの引用のなかに出てきた「非人格的なもの」(impersonnel)にはヴェイユ独特の意味が込められているので、引用部分だけを読んでもよくわからないかもしれない。そこで、岩波文庫版『重力と恩寵』に付された訳者冨原真弓氏による訳註の一つを参考として引いておく。

「非人格的なもの」に人間解放の鍵を認めるヴェイユの立場は、当時の文壇や思想界を席巻した「人格主義」――現実の共同体への参加をつうじた個人の自立と尊厳への覚醒運動――と真っ向から対立する。集団による毀誉褒貶に影響をうける人格に依拠するかぎり、集団の支配をまぬかれるすべはない。孤独と沈黙のうちにおこなわれる非人格的な領域への移行こそが唯一の解放となろう。

 以下は「人格と聖なるもの」からの抜粋の続きである。

 権利という語の使用は、心の奥底から湧き起こる叫びであるべきであろうものを、純粋さも効力もない権利要求の甲高いわめき声にしたのである。(344)

 権利の観念は、まさしくその凡庸さのために、おのずとその後に人格の観念をともなう。というのも、権利は人格的な事柄にかかわるからである。権利は人格と同じ水準にある。(344)

 天上から絶え間なく降り注ぐ光だけが、力強い根を地中深く下ろすエネルギーを木に供給する。実のところ、木は天上に根を張っているのである。(350)

 真理への愛はつねに慎み深さをともなっている。(354)

引用者註:引用はすべて電子書籍版によるが、「慎み深さ」が紙版では「謙遜」になっている。引用しなかった次の行でも同様。原文の humilité に対応する。これは訳者が電子書籍版で紙版に若干の修正を加えたことを示しているが、電子書籍にそれについての注記はない。

 真理と不幸とのあいだには自然的なつながりがある。なぜなら、どちらも、わたしたちの前で、声なき状態に永遠に留まらざるをえないことを余儀なくされ、押し黙って懇願しているからである。(355)

引用者註:「留まらざるをえないことを余儀なくされ」は日本語としてくどすぎるし、そのくどさを正当化する要素は原文 « Il y a alliance naturelle entre la vérité et le malheur, parce que l’une et l’autre sont des suppliants muets, éternellement condamnés à demeurer sans voix devant nous. » にはない。「留まらざるをえず」あるいは「留まることを余儀なくされ」とするか、condamnés の意を強調したければ、「留まることを強いられ」「留まることを宣告され」とでもすべきだろう。

 言語のうちに閉じ込められた精神は、牢獄内にある。(356)

 知性をもち、その知性を誇りにしている人間は、その独房の広さを誇りにしている囚人に似ている。(358)

 誰かに耳を傾けるとは、その人が話しているあいだ、その人の立場に身を置くということである。その魂が不幸でずたずたにされている、あるいは差し迫った身の危険がある人の立場に身を置くとは、自分自身の魂を無にすることである。それは、生きるのが楽しい子どもにとって自殺する以上に難しいことである。(362)

引用者註:最後の一文は言葉が足りず、誤解を招く。原文は « C’est plus difficile que ne serait le suicide à un enfant heureux de vivre. » 「それは、生きるのが楽しい子どもにとって自殺することが難しい以上に難しいことである」とでもすべき。「生きるのが楽しい子ども」自身にとっての比較ではなく、そのような子どもにとって自殺することは難しい以上に、(誰にとっても)不幸な人の立場に身を置くことは難しいというのが原文の意である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


夏休みのオンリー・サイテーション・モード(4)「権利の観念は社会的な争いの中心に置かれており、そこでは互いにいかなる隣人愛の色合いも不可能である」― シモーヌ・ヴェイユ「人格と聖なるもの」より

2024-07-15 16:50:44 | 読游摘録

 シモーヌ・ヴェイユの「人格と聖なるもの」は1942年12月から没年である翌年の3月にかけてロンドンで執筆された。ヴェイユ最晩年の論考のうち『根を持つこと』と並んで最重要のものとされる。没年から7年後の1950年12月に『ターブル・ロンド』誌に「人間の個人性、正義、不正義」というタイトルで掲載された。以下は同論考からの抜粋である(括弧内の数字は河出文庫『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』の頁数)。

 奴隷のようにあまりに打撃を受けすぎた人において、悪を課され、驚いて叫びを上げるこの心の部分はけっして完全には死んではいない。ただこの心の部分はもはや叫ぶことができないだけである。この心の部分は、聞きとられることのない、絶え間ないうめきの状態に置かれている。(317)

 悪が課され、心の奥底から発せられる、驚きに満ちた苦渋の叫びは、人格的なものではない。この叫びが湧き起こるには、人格や人格の欲望が攻撃されるだけでは不十分である。この叫びが湧き起こるのはつねに、痛みを通して不正義に触れたという感覚を通してである。(320)

 聖なるものとは、人格であるどころか、人間のうちなる非人格的なるものである。
 人間のうちなる非人格的なものはすべて、聖なるものである。そしてそれだけが聖なるものなのである(320‐321)

 真理と美は、非人格的で無名なもののこの領域に住まわっている。そしてこの領域こそが聖なるものなのである。(323)

 集団に聖なる性格を与えるという誤りが偶像崇拝である。偶像崇拝は、あらゆる時代、あらゆる国に、もっともあまねく広まった犯罪である。(325)

 人格はその本性からして集団に従属している。権利はその本性からして力に依存している。(337)

 聴く耳をもっている人に、「あなたがわたしにしていることは正しくない」と述べるならば、注意力と愛の精神を根源から目覚めさせることができる。だが、「わたしにはこれこれの権利がある」、「あなたにはこれこれの権利がない」といった言葉はそうではない。これらの言葉は、潜在的な闘いを孕んでおり、闘いの精神を呼び覚ます。権利の観念は社会的な争いの中心に置かれており、そこでは互いにいかなる隣人愛の色合いも不可能である。(343)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


昨日丸善で買った四冊の本 ― 『蜻蛉日記』、『吉本隆明詩集』、冨原真弓『シモーヌ・ヴェイユ』今村純子=編訳『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』

2024-07-14 14:15:11 | 読游摘録

 入居三日目にして、体が室内空間に馴染みはじめ、物の置き場所も落ち着いてきた。初日と昨日、マンションを中心にして半径二キロほどの界隈を歩き回り、繰り返し見る街の風景のなかの自分の位置も徐々に明確になりはじめた。内外の住空間に体が馴染んでくるのに応じて、より集中して考えられるようにもなった。
 昨日昼過ぎ、御茶ノ水駅前の丸善まで歩き、そこで次の四冊の文庫本を買った。『新版 蜻蛉日記 全訳注』(講談社学術文庫、上村悦子=訳・注、二〇二四年)、『吉本隆明詩集』(岩波文庫、蜂飼耳=編、二〇二四年)、冨原真弓『シモーヌ・ヴェイユ』(岩波現代文庫、二〇二四年)、『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』(河出文庫、今村純子=編訳、二〇一八年)。
 『新版 蜻蛉日記 全訳注』はすでに電子書籍版を所有している。検索にはこちらのほうが圧倒的に便利だが、味読のためには紙版がほしかった。八三十頁を超える詳細をきわめた注釈書である。原本は、同じ講談社学術文庫として三分冊で一九七八年に刊行されたもので、今回の出版はそれの合本で、内容は同一。つまり内容的には半世紀近く前の書であり、作品の解釈にはやや古びてしまった箇所も散見するが、詳細をきわめた語注から学ぶことはまだ多い。
 『吉本隆明詩集』は今月の新刊。岩波文庫の緑版の一冊として、詩人吉本隆明の作品が近代日本文学の「古典」の仲間入りし、これから書店の書棚に並ぶことに感慨を覚えないわけにはいかなかった。
 冨原真弓氏の『シモーヌ・ヴェイユ』はこれが三度目の出版。初版は二〇〇二年に岩波書店より刊行され、二〇一二年にはやはり岩波から「人文書セレクション」の一冊として再刊、今回の版はこの人文書セレクション版を底本とする。「対象に近づきすぎず、ある程度の熱がつたわる叙述を心がけた」(「岩波現代文庫によせて」より)からこそ、本書は今後もまた長く読みつがれるであろう基礎的研究たり得ている。
 今村純子氏によるアンソロジーも電子書籍版は昨年購入してあった。でも、やはり紙版もほしかった。書店で頁を開いてすぐに購入を決めた。電子書籍版は行間が狭く、しかも他書では多くの場合可能な行間の設定変更ができない。それに対して、紙版は目立って行間が広い。その分頁数も増え、価格も上がってしまうのに、あえてこうした理由はなんだろう。これは推測に過ぎないが、読み急がずに行間をゆっくり読んでほしいという編訳者の希望がこの広い行間の理由ではないだろうか。
 氏の渾身の編訳と解題は、現在の日本におけるヴェイユ研究の水準の高さを見事に代表している。来週の講演でちょっと触れたいと思っている La personne et le sacré(「人格と聖なるもの」)の訳も本書に収録されている。
 ちなみに、今村氏は「あとがき」に「ジョルジョ・アガンベンがシモーヌ・ヴェイユの名を語ることはけっしてない」と記しているが、本書と同じ年に刊行された Rivage poche の « Petite Bibliothèque » 叢書版 La personne et le sacré にアガンベンは十六頁にわたる序文を寄せている。
 明日の記事では今村氏の優れた訳から摘録を行う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


坂道による景観のダイナミクスとその歴史的奥行きを愉しむ

2024-07-13 22:20:25 | 雑感

  四時前に目が覚める。カーテンを開ける。外はまだ暗い。ベランダに出て小石川植物園の森林の木々のうえにわずかに見える空模様をうかがう。雨は降っていない。涼しい。
 昨晩立てた予定を変更して、四時半前、日の出の少し前、ジョギング・ウォーキングに出かける。もう以前のように長時間連続して走れない。ちょっと走って呼吸が苦しく、心臓が締めつけられる予兆が感じられたら、すぐにウォーキングに切り替える。落ち着くと、また走り出す。ここ数ヶ月はその繰り返し。
 まだ暗いのに、もう走っている人がいる。ウォーキングしている私の脇をゆっくりと追い越していく。私と同世代と見受けた。彼だってそうとうゆっくり走っているのだが、そのスピードでも私は長時間連続して走れない。もう心臓がそれを許さない。ちょっと悔しいけれど、仕方ない。でも、植物園からまだ仄暗く静まりかえった周囲の町に響き渡る数種の鳥の声と蜩の声を聴きながら走り・歩くのはとても心地よい。
 まず、小石川植物園の正面入口を起点として外壁に沿って一周する。全長二キロもないが、植物園の東西に坂道がある。どちらもけっこう傾斜がきつい。行きの上りは網干坂。名の由来はこちら。正面入り口に向かって下っていく坂道は御殿坂。その名の由来はこちら。どちらも江戸時代にまで遡る。
 ところで、ストラスブールには坂道らしい坂道がない。坂の上からの眺望はだから存在しない。もっとも、市郊外にはちょっと標高が高くなっている地区があって、たとえば、運河沿いに北西に六、七キロ行くと、遠くドイツのシュヴァルツヴァルトの山並みが見渡せる。先月の二〇日と二一日の記事に添付した写真がそれ。
 東京にはかつていたるところに「富士見坂」があった。実際、その坂の上に立つと富士山が見えたからである。御殿坂の別名も「富士見坂」。ここからも富士山が見えたのかと、富士のある風景を高層マンションの向こうに透視的に想像してみる。
 坂道が好きだ。登っても下っても興がある。下から見上げるとき、登り坂の向こうはいつも見えない奥行きだ。登りきったときにはじめて開ける展望や風光は、通い慣れた坂道のそれらでさえ、毎回新鮮でありうる。振り向いて見下ろす風景もよい。登っているときには見えなかった背後の景色がそこには広がっている。美的観点からする興味というよりも、もっと単純に、同じ場所の見え方が視点の高低の違いでダイナミックに変わるのが面白いのだと思う。
 今朝はジョギング・ウォーキング中に御殿坂を二度下った。かなりの急坂。走って降りるときは加速しすぎないように注意しないと、脚に負担がかかりすぎるし、つまずけば転がり落ちて怪我をしないともかぎらない。今日の記事の二葉の写真は御殿坂の上からと下から撮ったもの。
 小石川植物園の周囲は、景観のダイナミクスと歴史的奥行きをもったさまざまな坂道の面白さを愉しめる地区でもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


雨降る白山・小石川・春日界隈をふらつく

2024-07-12 22:23:15 | 雑感

 この記事は東京都文京区白山にある小石川植物園の正面入口の斜め前にあるマンションの一室で書いている。
 10日夕刻にストラスブールを発ち、その日はシャルル・ド・ゴール空港近くのホテルで一泊。翌朝のエール・フランス便で羽田へと向かう。羽田に着陸したのが今朝の5時55分。午後3時に31日間の短期賃貸契約をフランスにいる間に済ませておいたマンションに入居した。
 2017年にも、小石川植物園の裏手にあたる地区にやはりマンションを借りた。どうしてこの一帯にこだわるかというと、第一の理由は、夏期集中講義を行う大学に歩いて行けるという至便性である。でも、それだけの条件だったら他の地区でもそれを満たす物件は少なからずある。第二の、そしてそれが本当の主たる理由は、2017年にこの界隈を歩き回ったとき、この地区がすっかり気に入ってしまったことである。
 一部の高級マンションを除いて、高級とかオシャレというイメージが支配的ではなく、むしろこぢんまりとした質素な一戸建てがまだたくさん残っていて、表通りから一本はいると道が細く、したがって、車の通りも少なく、あっても徐行運転で、地区全体が静かに落ち着いていて、長年の住民たちが気取らずに気に入って棲んでいるという空気が感じられるのだ。その中心に小石川植物園がある。
 今回の物件は大学からの距離は前回よりやや遠いが、窓の正面は、狭い通りを挟んで小石川植物園の森という立地条件に魅了されてしまった(ただ、横断する電線に視界が邪魔されるのが残念)。入居してみて、八階建ての建物の作りもしっかりしており、セキュリティに関しても、専用キーを使わないとエントランスには入れず、合格点、部屋そのものもきれいにメンテナンスされており、申し分ない。
 ただ、一点、管理会社からあらかじめ知らされていたとはいえ、残念に思うことがある。それは、食器・調理器具がまったくないことである。コップ一個、箸一膳すらない。一月間の滞在のために、自炊のための最低限の道具を買い揃えるのは割に合わない。レンタルセットもあるが、割高だし、こちらが望んでいるものが全部揃うわけでもない。かといって、全部外食では出費もかさむし、栄養バランスもよくない。この点は改善してもらいたいと思う。
 それはともかく、雨模様の白山・小石川・春日界隈を少し歩き回ってみた。そのために折りたたみの雨傘をマンションから150メートルのところにあるセブン・イレブンで買った。これが今回の滞在の最初の買い物であった。実は、出発直前まで、傘を持っていくかいくまいか迷ったのだが、少しでも荷物を軽くするためにリストからはずした。それが裏目に出た。
 とりあえずの買い物を済ませた帰り道、Vàng Field というべトナム創作料理の店が目に止まり、ふらふらと吸い込まれるように入って、そこで早めの夕食を済ませる。飲み物の値段設定がやや高めだとは思ったが、メニューに並ぶ料理はどれも美味しそう。自家製の塩豚の炙り焼き(1280円)を注文した。塩焼きとはいっても味はまろやか、甘みさえ感じられた。ボリュームも対値段でまずまず。接客も合格点。私は5時過ぎに入り、6時前には店を出たが、私と入れ違いにつぎつぎと予約の客たちが入って来る。
 料理と一緒に頼んだ金澤ビールとサイゴン・スペシャルでほろ酔い気分になって、傘をさそうかさすまいかというほどの降りの小雨の中、買ったばかりの傘をさして「新居」まで少し遠回りして帰る。
 天気予報によれば明日も雨。ジョギングはあきらめ、散歩に出る以外は家にこもって来週の札幌での二つの講演会の仕上げに集中しようかと思う。