昨日の記事のシモーヌ・ヴェイユからの引用のなかに出てきた「非人格的なもの」(impersonnel)にはヴェイユ独特の意味が込められているので、引用部分だけを読んでもよくわからないかもしれない。そこで、岩波文庫版『重力と恩寵』に付された訳者冨原真弓氏による訳註の一つを参考として引いておく。
「非人格的なもの」に人間解放の鍵を認めるヴェイユの立場は、当時の文壇や思想界を席巻した「人格主義」――現実の共同体への参加をつうじた個人の自立と尊厳への覚醒運動――と真っ向から対立する。集団による毀誉褒貶に影響をうける人格に依拠するかぎり、集団の支配をまぬかれるすべはない。孤独と沈黙のうちにおこなわれる非人格的な領域への移行こそが唯一の解放となろう。
以下は「人格と聖なるもの」からの抜粋の続きである。
権利という語の使用は、心の奥底から湧き起こる叫びであるべきであろうものを、純粋さも効力もない権利要求の甲高いわめき声にしたのである。(344)
権利の観念は、まさしくその凡庸さのために、おのずとその後に人格の観念をともなう。というのも、権利は人格的な事柄にかかわるからである。権利は人格と同じ水準にある。(344)
天上から絶え間なく降り注ぐ光だけが、力強い根を地中深く下ろすエネルギーを木に供給する。実のところ、木は天上に根を張っているのである。(350)
真理への愛はつねに慎み深さをともなっている。(354)
引用者註:引用はすべて電子書籍版によるが、「慎み深さ」が紙版では「謙遜」になっている。引用しなかった次の行でも同様。原文の humilité に対応する。これは訳者が電子書籍版で紙版に若干の修正を加えたことを示しているが、電子書籍にそれについての注記はない。
真理と不幸とのあいだには自然的なつながりがある。なぜなら、どちらも、わたしたちの前で、声なき状態に永遠に留まらざるをえないことを余儀なくされ、押し黙って懇願しているからである。(355)
引用者註:「留まらざるをえないことを余儀なくされ」は日本語としてくどすぎるし、そのくどさを正当化する要素は原文 « Il y a alliance naturelle entre la vérité et le malheur, parce que l’une et l’autre sont des suppliants muets, éternellement condamnés à demeurer sans voix devant nous. » にはない。「留まらざるをえず」あるいは「留まることを余儀なくされ」とするか、condamnés の意を強調したければ、「留まることを強いられ」「留まることを宣告され」とでもすべきだろう。
言語のうちに閉じ込められた精神は、牢獄内にある。(356)
知性をもち、その知性を誇りにしている人間は、その独房の広さを誇りにしている囚人に似ている。(358)
誰かに耳を傾けるとは、その人が話しているあいだ、その人の立場に身を置くということである。その魂が不幸でずたずたにされている、あるいは差し迫った身の危険がある人の立場に身を置くとは、自分自身の魂を無にすることである。それは、生きるのが楽しい子どもにとって自殺する以上に難しいことである。(362)
引用者註:最後の一文は言葉が足りず、誤解を招く。原文は « C’est plus difficile que ne serait le suicide à un enfant heureux de vivre. » 「それは、生きるのが楽しい子どもにとって自殺することが難しい以上に難しいことである」とでもすべき。「生きるのが楽しい子ども」自身にとっての比較ではなく、そのような子どもにとって自殺することは難しい以上に、(誰にとっても)不幸な人の立場に身を置くことは難しいというのが原文の意である。