内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日仏合同ゼミを終えて ― 増殖する日仏ネットワークの起点の一つ

2023-02-08 17:26:38 | 雑感

 一昨日月曜日は、午前に一つ、午後に二つの日仏合同チームによる発表があり、それぞれの発表後に質疑応答が行われた。発表はそれぞれに力作ではあったが、いずれも取り上げた問題が大きすぎたようで、その大きさに力負けしているのは否めなかった。質疑応答も全般に不活発で、私がその缺を補うべくいろいろとしゃべったが、これはゼミの趣旨からして好ましいことではなかった。
 このような結果になったのは、学生たちの責任ではない。指導するこちら側の指導不足にその主な原因があると言わざるを得ない。彼らが持て余し気味な問題をもっと取り扱いやすい問題へ限定するためのヒントをもっと出し、場合によっては、こちらから彼らにテーマを提案すべきだったかもしれないというのが今回の私の反省点だ。法政側のK先生も同意見だ。
 昨日は、グループ・ディスカッション、グループ間の質疑応答、総括という三部立てだった。三つのグループに分かれたディスカッションには、私もK先生もいっさい介入せず、学生たちに自由にディスカッションさせた。それなりに活気づいていた。グループ間の質疑応答は、それぞれに自分たちのグループ以外の二つの発表について質問を互いにし合うという形を取った。このやりとりもどちらかと言えば低調で、質疑応答を通じてお互いに発表内容の理解を深めるところにまでは至らなかった。その主な原因も、発表したグループ自体が問題を扱いきれていないことにあった。
 こちら側の指導不足が原因でどのグループも問題を絞りきれず、発表の準備に苦労したことについては、総括のときに私から学生たちに率直に謝罪した。来年度に向けての反省点として宿題とさせてもらった。私自身、まだどこをどう改善すればよいのかよく見えていないし、学生の顔ぶれは毎年変わるから、新学年が始まってみないとわからないこともある。
 ただ、昨日のレストランでの夕食会のとき、昨年から続けて二度目の参加の四名の学生たちと同じテーブルになって、いろいろと話を聴けたのは楽しかったし、このプログラムを続けてきたことの手応えも感じることができた。というのは、昨年ストラスブール側から参加した学生たちのうち五名が現在日本に留学中なのだが、彼らとお互いに連絡を取り合ったり、会ったりしているとのこと。留学しなかった学生ともコンタクトを保ち、この夏日本に行くとの連絡を受けたという話も聞いた。
 また、やはり昨年も参加してくれた学生の一人が、去年のテーマ「武士道」についての私の話がきっかけになり、自分の故郷における武士道の伝承について地元に帰って史料を調べ、それを簡単なレポートにまとめたという。私に送るのを躊躇っているというので、遠慮せずに送ってくれと伝えた。
 合同ゼミそのもののさらなる改良と充実がストラスブール側の責任者である私の主たる役割であることは言うまでもない。と同時に、このゼミがきっかけになって日仏の学生間の交流が活発になり、参加学生たちがそれぞれ社会人になってからも様々な形で息の長い繋がりが続き、それが広がっていくことを私は心から願っている。それこそがこのプログラムの本当の目的だとさえ言ってもいいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人間の自然本性としてのミメーシス(模倣)

2023-02-07 23:59:59 | 読游摘録

 昨日の記事で言及したのとは別のもう一つのグループは「ミメーシス」概念を中心的に取り上げた。中井正一自身、『美学入門』で数回ミメーシス(中井は「ミメジス」と表記)に言及しているだけでなく、他の著作でも度々言及しているから、そのことだけからでも、「ミメーシス」を軸にして発表を構成することは妥当な選択だ。そして、考察の出発点としてアリストテレスの『詩学』における悲劇の定義を選んだことも、中井のミメーシスをめぐる議論をより限定された場面において考察するためには適切な判断だ。
 しかし、それにしても、ミメーシスは西洋哲学史・文芸思想史に古代から現代まで通底する根本概念の一つであるから、容易には扱えないテーマである。以下、光文社古典新訳文庫の『詩学』(三浦洋訳)の訳と注から、いくつか重要な論点を書き抜いておく。
 叙事詩、悲劇、喜劇、抒情詩、演劇などでの伴奏、それらすべては総じて「模倣」であるとした上で、アリストテレスは、それらが次の三つの点で互いに異なるという。すなわち、模倣に用いる素材、模倣する対象、模倣する方式という三点においてである。
 画家が対象の色や形を真似て、その像を絵の具でキャンバスの上に描くように、詩人がストーリーの中で主人公の行為を描くことは、言葉を駆使して行為を真似ること、すなわち模倣することである。このような創作上の「模倣」が、真似を得意とする人間の自然本性に由来するというのが『詩学』の主張である。
 この模倣が人間に自然本性に由来するという考えは、『詩学』第四章のはじめの方に示されている。「模倣することが人間には幼少期から、自然本性的に備わっているため、他の動物とは違って、最も模倣を得意とし、最初期の学習も模倣を通じて行う。」
これら考えを前提として、悲劇の本質が定義される(第六章冒頭)。

悲劇とは、真面目な行為の、それも一定の大きさを持ちながら完結した行為の模倣であり、作品の部分ごとに別々の種類の快く響く言葉を用いて、叙述して伝えるのではなく演じる仕方により、[ストーリーが観劇者に生じさせる]憐れみと怖れを通じ、そうした諸感情からのカタルシス(浄化)をなし遂げるものである。

 これだけ読んだだけでも、ミメーシスについて論じるということは、たとえそれを芸術論の枠の中に限定して行うとしても、人間の本性としての「模倣」についての理論的考察を抜きにはできないことがわかる。今回の発表までの準備過程を通じて、学生たちがそのことに気づけただけでも、「ミメーシス」を取り上げた意味はあったと言ってよいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


エドマンド・バーク『崇高と美の起源』を当時の政治・社会・経済的文脈の中で読むことの重要性に気づかされる

2023-02-06 23:59:59 | 読游摘録

 今日明日と法政大学哲学科学部生十九名とストラスブール大学日本学科修士一年の九名との合同ゼミがストラスブール大学において行われる。このゼミはすでに十数年の歴史をもつ。私が日本学科側の責任者として関わり始めたのは赴任した2014/15年度からのことで、今回で九回目となる。昨年と一昨年はすべてオンラインで行われ、それ以前のように日本から同大学の学生たちがアルザスに来ることはコロナ禍ゆえに叶わなかった。それだけに今回三年ぶりに日本から学生たちを迎えることができてとても喜んでいる。今回の合同ゼミのプログラムと中身については明後日に報告する。
 今日の記事では、今回の合同ゼミの課題図書だった中井正一の『美学入門』についての三つの日仏合同チームの発表のうち、エドマンド・バークの『崇高と美の起源』とカントの『美と崇高についての考察』とにおける「崇高」概念を取り上げたチームに対する私からのコメントのなかで言及した、『オラント城/崇高と美の起源』(千葉康樹・大河内昌訳、研究社、「英国十八世紀文学叢書、2022年)のバーク崇高論の訳者である大河内氏の解説の一部を抜粋する。それらの箇所が私自身にとって啓蒙的だったからである。それは崇高論が内包している政治的な意味を考慮することの重要性を氏が強調されている箇所である。
 氏によれば、バークの美学理論が暗黙のうちに内包している政治学は、「近代的な商業社会を擁護するタイプの政治学」である。「美と崇高という一組の美学的概念にバークは、近代の市民社会を統制するための、対立しながらも相補的な社会的機能を託しているのである。」バークは、一方で、美は社会を構成する原理として認めながら、他方では、美と洗練には、「怠惰や憂鬱をもたらすことによって、社会を堕落させる危険」に注意を促す。この文脈でバークがいう美が「当時の社会的・道徳的論争における中心テーマのひとつであった「奢侈」(luxury)の別名であることはあきらかである」と大河内氏は指摘する。バークの崇高論は、「奢侈」批判としての商業批判の言説に対抗しようとして、書かれたものだという。
 「バークの『崇高と美の起源』の注目すべき点は、想像力には過剰な洗練がもたらす堕落を抑制する自己調整機能が備わっているのだと証明しようとしていることである。想像力に内在する自己統制のメカニズムをバークは崇高と呼ぶ。」
 「バークの美学は、趣味の洗練と奢侈を加速度的に生み出す商業市民社会を肯定する政治学を内包している。もし、優れた趣味が、奢侈と怠惰を生み出すだけでなく、崇高による道徳的な訓練を市民に授けるなら、洗練された商業社会は虚弱化と堕落をもたらすという批判は的外れだと主張できるのである。」
 「バークの美学が、大土地所有に基づいた貴族階級へのヘゲモニーに対抗するブルジョア階級の文化的戦略の一部をなしていたことは明白である。」「だが、バークのように趣味を身体構造というあらゆる人間に共通な属性の上に基礎づけてしまえば、市民社会の市民権の条件となる趣味や感受性の領域に、労働者階級や下層階級が参画する可能性に道を開くことになりかねないのである。」
 これらの指摘によって、バークの崇高論を十八世紀英国の政治・社会・経済的な文脈の中に置いて読むことの重要性に私は気づかされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


実を結んだ一通のサポート・レター

2023-02-05 16:13:24 | 雑感

 手前味噌で恐縮ですが、先週火曜日、ちょっと嬉しいことがありました。
 順を追って説明します(って、誰もアンタの話になんか興味ないと思うけど ― まあ、そう言わずに。三分だけお時間いただけますか ― それパクリじゃん)。
 昨日の記事の話題とも関連があるのですが、実は、今年度つまり2022‐2023年度の留学生として大学内部では選抜されながら、日本の受け入れ大学から「成績不十分」との理由で拒否されてしまった学生が一人いました。昨年四月のことでした。これは私が願書作成サポートに関わるようになってからはじめてのことで、その知らせを受けたときはすぐには事情がよく飲み込めませんでした。
 以下、昨日の記事同様、諸方に差し障りがないように、拒否してきた日本の大学の名前も伏せますし、当該の学生の個人的事情も一切伏せます。
 この拒否権発動に関して、最終的には日本の受け入れ大学側にその権利があることは規約上認められているので、その点に関しては異論の余地はないのですが、なにか非常に不愉快なものを私は直感したのです。率直に申し上げましょう。「厄介事は御免だ」というのが拒否の本当の理由だと見抜いたのです。
 当該学生が失望したのはもちろんのことです。しかも、この話を数ヶ月に亘ってこじらせることになったのは、その学生の両親が非は本学の国際交流課の対応のまずさにあると非難してきて(私に言わせれば、これは言いがかりもいいところです)、大学長に直訴状を送ってしまったことにあります。大学の対応によっては裁判も辞さないという剣幕でした。この点に関して、両親の行動は明らかに行き過ぎだと私はことのはじまりから考えていました。しかし、国際交流課の誠意ある対応にも関わらず、事態は悪化する一方でした。
 夏休み明けの九月初旬、大学側の関係者間でこの問題についてオンライン会議が開かれました。結論として、一年間の留学は諦める、今年度後期のみの留学に再度同じ大学に願書を提出する、という方向で話を収めるべく各人動くということになりました。当該学生の世話役の私の役回りは、日本の大学宛に当該学生のためにサポート・レターを書くことでした。
 結果を申し上げますと、幸いなことに、当該学生の後期プログラムへの受け入れが一月に正式に承認されました。それ自体ほんとうに嬉しい知らせなのですが、その後、学生本人から面談の申し込みがあり、先週の火曜日にその面談がありました。
 その面談で、学生が開口一番、「先生にまず感謝したいことがあります」というのです。どういうことかと聞くと、彼が国際交流課で聞いた話によると、今回の受け入れに関して、私のサポート・レターが決め手になったと、当の日本の大学から本学の国際交流課に連絡があったというのです。
 これは嬉しかった。サポート・レターを書いたときには、それがほんとうにサポートになるのか、正直、自信なかったのです。形式的な理由を盾に拒否される可能性は大いにあったからです。
 そのサポート・レターは、A4一枚の半分ほどの短い文章に過ぎず、読みようによっては、そっけないとも取られかねない文面でした。しかし、それは熟慮の上の選択でした。いたずらに感情に訴える、情状酌量を求めて低姿勢になる、先方にも非があることを匂わせる、それらの要素を一切排除して、事実として言えることを淡々と綴りました。
 以下、固有名詞を一切伏せて、全文掲載します。きっと、なあんだ、こんなんでいいんだ、と思われる方もいらっしゃるでしょう。

〇〇大学関係者各位

 私儀、ストラスブール大学言語学部日本学科准教授、日本留学者教育担当の〇〇〇〇は、本学〇〇学部〇〇学科○年生〇〇〇〇を貴学〇〇への候補生として推薦いたします。

 今年1月から2月初めにかけて翌年度留学生の内部選考が行われ、〇〇は貴学への年間留学生として選抜されました。ところが、GPAの計算方式によりますと、〇〇の成績は基準値を下回ってしまい、結果として貴学から留学を拒否されてしまいました。
 この残念な結果は、フランスの大学の成績評価が大変厳しいことにその主因があります。フランスでは20点満点で成績を計算しますが、総合平均点が12点(100点満点で60点)は良好な成績の部類に入ります。〇〇の成績はそれを下回ってはおりますが、2年から3年に進級できる学生が例年同学年の約半数に過ぎないことからして、〇〇が現在3年に進級できていることは、2年次の成績がけっして不良ではないこと意味しています。
 〇〇に関して特筆すべきことは、手書きに関する困難を克服しつつ、1年生のときから弛みなく努力を重ね、総合成績が1年のときよりも2年になって向上していることです。学年が上がるにしたがって総合平均点が低下するのが一般の傾向ですので、総合成績が向上していることは、〇〇が学業全般において着実な進歩を遂げていることを意味しています。
 貴学において留学生の選考・受け入れに関わる各位に、これらの点をご考慮いただいた上で最終的にご判断していただければ幸甚に存じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「育ち」ということについて ― 老いの繰り言、そして若き学生たちへの願い

2023-02-04 19:24:41 | 雑感

 まず、愚痴です。聴いてくださいますか。
 二月一日、所属する学部で私が数年来関わっている日本への留学希望者の書類審査の来年度(二〇二三/二四年度)に関する結果が国際交流課から当該学生たちに一斉に通知されました。その結果に対する応募学生たちからの反応を受けて、ちょっとため息交じりに感じてしまったことがあります。
 諸方への差し障りがないように具体的状況の詳細はいっさい省略します。まず断っておきたいことは、学生たちの反応の違いは必ずしも彼女ら彼ら自身の責任ではないということです。それに、こんな愚痴は、時代に取り残された意固地な老教師の、偏見に満ちた、まさに老いの繰り言に過ぎないと承知の上で申し上げます。一言でいうと、「育ち」の違いを感じるのです。
 それは、しかし、いわゆる家柄とか親の社会的地位とか経済的豊かさによって決まるもののことではありません。もっと一般的で基本的なことです。幼少期からどのように育てられてきたか、基本的に人を信じることができるか、自分のことを負の面も含めて正直に話せるか、他者に配慮した言葉遣いができるか、などです。
 これらのことは知的能力とまったく無関係ではありません。成績の悪い学生たちの中に不愉快な態度を取る学生が少なくないことはまぎれもない事実です。しかし、「頭が良い」ことと「育ちが良い」こととはまったく別の次元に属する問題です。
 この両者のどちらも備えていない学生たちはほんとうに気の毒です。与えられた状況の中でなぜ自分が適切な行動ができないかわからないからです。
 こんな図式的な割り切り方自体が不当だという反論はもちろんあるでしょう。それは認めます。その上で言いたいことがあります。
 けっして全否定的な結果ではないのにまず文句を言う学生、「それを言う前にまずこう言うべきではないですか」と言いたくなる反応をする学生がいる一方、第三志望に割り振られたという結果にショックを受けて多少は取り乱した発言をしても当然な場面で、「だいじょうぶ? がっかりしていない?」とこちらが聞くと、自分の失望を正直に表現でき、かつ礼節と感謝を忘れず、前を向こうとする学生もいます。それらの学生たちに同じ日に接したことで、この違いはどこから来るのだろうと考えてしまったのです。
 とはいえ、私が願書作成に関わった学生たちは全員日本への留学生として選抜されたのです。だから、さして深刻なケースはないのです。基本、みんな喜んでいるのです。
 最後に学生たちへ一言許されたし。
 つべこべ言うのは君たちの権利だ。だから私はそれを聴く。しかし、君たちには見えていないことで私には見えていることがあるのだ。その上で私は君たちにアドヴァイスしている。君たちの視野はまだ狭い。それは当然のことで、非難されることではない。ただ、相手の言うことの是非を判断する前に、まずその人の話に注意深く耳を傾ける謙虚さをもちなさい。この謙虚さが君たちの未来をより豊かなものにすることを私は保証する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「死は清き月夜よりも美しい」― 西田幾多郎の娘西田静子宛の手紙より

2023-02-03 11:13:44 | 講義の余白から

 毎年二月、「日本の文明と文化」の授業の課題の一つとして、手書きの手紙を学生たちに書いてもらいます。この課題をはじめて出したのは二〇二〇年二月、そのときは思いもよりませんでしたが、コロナ禍による最初のロックダウンのひと月前のことでした。そのとき学生たちが書いてくれた手紙についての感想はこちらの記事を御覧ください。
 それから毎年、同じ授業の枠で学生たちに手紙を書かせています。今年で四回目になります。締め切りは三月二日です。その前に二週間の冬休みがありますから、時間は十分にあります。どんな手紙を書いてくれるか、今から楽しみです。
 授業では、その準備の一環として、『ツバキ文、具店~鎌倉代書屋物語~』の中から三話選んで、一話ずつ一回の授業で鑑賞させながら、その前後に、古代から現代までの手紙の歴史について、つまみ食い程度に過ぎませんが、解説しています。すでに何度も申し上げていますが、この授業はすべて日本語で行います。
 先週、手紙についての授業の初回、学生たちに、「あなたたちは手書きの手紙を書いたことがありますか」とまず聞いたら、三十五名ほどの出席者のうち数名が手を上げてくれましたが、聞いてみると、絵葉書にちょっと言葉を添えた程度のもので、便箋を使って手紙を書いたことがあるという学生は皆無でした。他方、これまで一度も手書きの手紙を書いたことはないという学生が数名いました。他の学生たちはどうなのか追求しませんでしたが、まったく書いたことがないという学生がいたのは予想通りでした。
 日本ではどうでしょう。二十歳前後の学生たちで生まれてから一度も手書きの手紙を書いたことがないという人はやはりいるのでしょうか。
 かく言う私自身、はて、最後に手書きの手紙を書いたのはいつのことだったかと思い出そうとして、それが十年以上遡ることに気づいて、愕然としてしまいました。もともと筆まめではありませんでしたが、かといって筆不精というほどでもなく、メールが普及する前の二十年あまり前には月に何通か書いていました。それは留学初期のことで、日本の家族や他国の友人と近況を報告しあうには、手紙がもっとも普通の手段だったからです。ところが、メールでのやりとりが日常の習慣になってから、ほとんど手紙を書かなくなってしまいました。それで特に困ったこともありません。
 しかし、手書きの手紙でしか伝わらない気持ちもあるでしょう。少なくとも、同じ文面をパソコンで作成してプリントアウトしたものとは明らかに味わいが違うでしょう。ましてや、パソコンの画面に映し出されただけの文面とは。
 学生たちには、私もここ十年以上手書きの手紙を書いていないことをまず正直に伝えました。その上で、手紙を自分の手で書くこと、そして筆記用具、インクの色、便箋、封筒なども吟味して選ぶこと、それは貴重な経験になるから、この課題に真剣に取り組んでほしいとこちらの願いを伝えました。
 昨日の授業では、いくつか手紙の実例を紹介しました。手書きの写真版でもあればその方がいいのですが、それはなかなかに入手困難ですので、書簡集として書物の形になったものから紹介しました。漱石が芥川龍之介と久米正雄の二人に宛てた有名な手紙を紹介した後、まったく私個人の好みで、西田幾多郎が七十四歳のとき三十九歳の娘静子に宛てた一九四四年十一月十二日付けの手紙の全文を紹介しました。句読点の使い方、改行の仕方、選ばれた言葉、最後の二文に表れた後妻に対する細やかな配慮などに注意を促しました。以下がその全文です。

 体はそうわるいと云うのでもない様で安心して居ります、どうか体と心とを大切に油断なく気をつける様に、遠くにいても私の心はいつもいつもお前の傍につきそうています、昼も夜もお前のことを思わない時はありませぬ、私は何時死んでも思いのこすことはないがただお前のことのみ気にかかります、どうか立派に一人でやって行く様に、
 女が一人で居るといろいろ思わぬ誘惑が入ったり、いろいろ思いがけない事が起こったりするものだから、心の底の底 からしっかりして、人から指一本さされぬ様に。いかにも私の娘と云われる様に。
 これからの日本もどういう風になって行くか中々容易ではないとおもいます。
 死ということは何も恐しいことはない、人間は誰もかれも皆死を免れることはできない、長く生きたとてそうよいこともない、死は清き月夜よりも美しい。
 少なくも月一度位はそちらの様子でも云って便なさい。しかし二人の名宛にして。そうでないと気が曲るから。

『西田幾多郎書簡集』岩波文庫、2020年、252‐253頁。


転倒顛末(その二)

2023-02-02 23:59:59 | 雑感

 水木の二日間、ジョギングを休み、外出はそれぞれ一コマずつの授業のためだけに大学まで自転車で往復しただけでした。自転車で走っているときにはまったく痛みを感じません。自宅では主に机に向かい、できるだけ体を動かさないようにしました。ある特定の上半身の動かし方、たとえば左肩のみを聳やかすように上方に動かすような、日常生活に必要ではない動かし方を除けば、打撲箇所に痛みが走ることはありませんでした。
 一方、この二日間に気づかされたことは、くしゃみや咳が当該箇所を痛ませるので、普段のようにはどちらもできないことでした。くしゃみをしかかっただけで痛むので、くしゃみが出ないようになんとか抑え込みました。咳の場合も同様です。深呼吸をした場合も若干痛みます。
 以前、くしゃみや咳が続くと肋骨にひびが入ったり疲労骨折を起こしたりすることがあり、また、歳を取って骨が脆くなると、同じようにひびあるいは骨折が生じると聞いたことがあります。そのときはそんなこともあるのかとまったく他人事として聞き流していました。
 今回の転倒後のもろもろの症状から判断して、おそらく左肋骨下部二三本に若干のひびが入ってしまったのだろうと思われます。さすがに放置はまずいだろうと、金曜日の朝、仕方なしに近所の一般医のところで診察を受けたのですが、問診および触診の結果、私の素人診断は間違ってはおらず、普通にしていれば痛みもないのであれば、このまま自然治癒に任せればよいだろうとの診断でした。運動に関しては、もちろん激しい運動は避けるべきだが、無理のない適度な運動は、全身の血行を良くし、自然治癒を促進させるから、むしろしたほうがよいとのことでした。
 というわけで、金曜の午後からジョギングを再開しました。歩くだけならまったく普段同様にできるのですが、走るとどうなるのだろうと最初はちょっと不安でした。案の定、ゆっくり走っても患部が痛む、というか、患部に響きます。無理する理由はありませんから、ちょっと走っては歩くということを繰り返し、様子を見ました。すると、体が温まってくると痛みが軽減することがわかりました。約七キロ、ジョギングとウォーキングを交互に繰り返して終わりにしました。
 土日は少しずつ距離を延ばし、かつジョギングの割合を増やしていきました。土曜日が九キロ、日曜日が十一キロ。患部の痛みは徐々にですが軽減してきているのが実感できるようになりました。
 月末の月火は、それぞれ六キロずつ、ジョギング五キロ、ウォーキング一キロに留めました。走り始めにはまだ患部に響くという感じが残っており、それを意識せずには走れないのですが、ペースはほぼ転倒以前のペースに戻すことができました。
 水木はジョギング九キロ、ウォーキング一キロと、ほぼ転倒以前の距離に戻し、かつ途中に百メートルほどの全力疾走を二回組み込み、痛みが出るかどうか試してみました。速度を上げたからといって痛みが強まるということはまったくありませんでした。
 就寝起床時の患部の痛みも徐々に軽減縮小しつつあります。しかし、油断は禁物。体のどんな小さな変化も見逃さないように注意しつつ、焦らずに完治を待ちたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


転倒顛末(その一)

2023-02-01 23:59:59 | 雑感

 もう少し経過を見てから最終的なまとめをしたいと思っていることが一つあります。
 事の発端は、先月二十四日、その日の午後、ジョギングをしていたときのことでした。走っていて、あまり調子が良くなく、どこか痛むというわけではなかったのですが、脚がすごく重く感じられ、脚が上がらず、今日はもう無理せずに五キロほどであがろうと自宅近くにまで戻ってきたとき、車の通りが少なかったので、車道を走っていたのです。それ自体は例外的なことではなく、自宅付近の歩道は凸凹があったり、集合住宅の出入り口の前は低くなっていたりして、それらがけっこう頻繁にあり、その都度のアップダウンが走っていてあまり快適ではなく、車が走っていないかぎり車道を走ることが普段から多かったのです。
 その日、自宅まであと二百メートルくらいのところで、前方から車が一台近づいてきました。車道の端によれば簡単にその車をやり過ごすこともできたのですが、もうほとんど歩きかけていたので、ひょいと脇の歩道に上がろうとしたとき、歩道上の突起に躓いてころんでしまったのです。左肋骨部から左肩甲骨にかけて若干地面に打ちつけるようなかっこうでひっくりかえってしまったのです。ころんだ瞬間にそれらの部分に痛みが走りましたが、外傷もまったくなく、すぐに立ち上がって歩いて自宅まで帰ることができました。打った部分に痛みはあるものの、腕の上げ下げは自由にでき、打撲のあともなく、まあたいしたことないだろうと高を括っていました。
 その日の夕刻に予定されていたZOOMミーティング中も特に痛みを感じることなく一時間ほど大いに議論することができました。
 ところがです。その夜、就寝しようとして驚いたのです。横たわろうとして身を屈めたら、打撲した箇所にかなり強い痛みが感じられ、そのままいつものようには横になれず、それ以上痛みが強くならないように、できるだけ楽な角度を探しながら、徐々に体を横たえていかなければなりませんでした。
 一旦横になってしまえば、痛みも収まったのですが、寝返りを打とうとすると痛みが走ります。なんとか楽な角度を保ちながら眠ることができましたが、翌朝、起き上がるのがまた一苦労でした。普段どおりであれば、両手をついてそのまま上体を起こせばいいわけですが、それが痛くてできないのです。左手をつくと打撲箇所に痛みが走ります。それを避けて右手だけをついて起き上がろうとするとこれがすぐにはうまくいかないのです。それまで当たり前にそれこそ無意識にできていた動きが痛みのせいでできなくなってしまったのです。
 それでもなんとか起き上がってしまえば、日常生活に特に支障もありませんでした。特に重いものでも持ち上げようとしないかぎり、痛みもありませんし、脚には何の問題もないので、歩くことも自転車にのることも普段どおりにできました。ですから、大学の授業に支障がでることもありませんでした。
 ただ用心して、転んだ翌日と翌々日はジョギングを休みました。それ以後のことについてはまた明日書きます。