内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ヨーロッパを内側から揺るがす「異物」としてのロシア

2023-02-15 20:53:15 | 雑感

 岩波書店の新日本古典文学大系39巻『方丈記 徒然草』で『方丈記』の注解を担当された佐竹昭広氏がその序文でニコライ・ベルジャーエフ(1874‐1948)の葛藤型についての分類に言及していることを一昨日12日の記事で話題にした。
 そのベルジャーエフの諸著作の日本語訳の出版年を通覧すると、1940年代から1960年代にかけてかなりの読者を獲得していたことが推測できる。邦訳の出版書目とその再版の頻度からして、とりわけドストエフスキー論・マルクス論・終末論・歴史論・実存主義への関心から読まれていたことがわかる。そのような文脈においてベルジャーエフの思想へ関心が高かったのであろう。
 その関心への誘因として、ベルジャーエフにとって年上の友人であるレフ・シェストフ(1866‐1938)への関心がそれに先立っていたことは間違いない。30年代から40年代にかけての日本の知識人たちへの影響力としてはシェストフの方が大きかったことは、1934年に刊行された河上徹太郎訳『悲劇の哲学』が「シェストフ的不安」という造語を生んだことからも想像できる。
 しかし、その後の両者への関心の低下は、シェストフに対してもベルジャーエフに対しても、ほんとうに実存的関心をもって読まれることはなかったのではないかと疑わせるに十分である。
 今日の日本において、シェストフとベルジャーエフへの関心が、ロシア近代思想史の専門家あるいは二十世紀前半の近代日本思想史の専門家(の一部)以外にどれほど保たれているのだろう。専門家を除けば、名前さえ聞いたことがないという人も少なくないのではないだろうか。
 ヨーロッパ二十世紀前半のキリスト教的実存主義は、もはや過去の「遺物」であり、その限りでの思想史的関心の対象ではありえても、思想として今日まともに取り上げるに値しないという考えが今日支配的であるとすれば、両者に対する一般的無関心はその当然の帰結であり、なんら驚くに値しない。
 この点、フランスでの事情は異なる。両者への関心は、今日、再び高まりつつある。その関心は、両者が1917年ロシア革命後にロシアで迫害を受け、結果としてフランスへ亡命したという歴史的事実の共通点があるからだけではない。むしろそれは副次的な条件にすぎない。
 ことはヨーロッパ近代思想史にとって内在的な、もっと本質的な部分に関わる。「ヨーロッパ」にとって、「ユダヤ」が排除し難い内在的な「異物」であるのとはまた違った意味で、「ロシア」もまた、無視し難い非ヨーロッパ的な「異物」なのだ。これにさらに「アラブ」が食い込んでいる。それは中世からのことだ。
 60・70年代の日本のいわゆる西欧派知識人たちでこのことを明確に認識できていた人がどれだけいたか。井筒俊彦の名を挙げる人がいるかもしれない。しかし、彼はいわゆる西欧派の枠に収まる思想家ではない。それを超えた学殖と視野があったからこそ、「ヨーロッパ」を相対化する方法的態度を形成することができた。
 現在のヨーロッパが行く先を見失い混迷しているとすれば、それは自己中心的な「西欧的原理」が内在的批判の対象になっているからではない。端的に言えば、これまでヨーロッパが抑圧しつつ内に取り込み見て見ぬ振りをしてきた、内なる「アラブ」「ユダヤ」「ロシア」から復讐されているからである。そして、内なる「アフリカ」からの異議申し立てもヨーロッパを揺るがしつつあることを今さら言い添える必要があるだろうか。
 翻って日本のことを想う。
 近代日本を支えてきた技術立国の基盤が揺るがされているという批判は、今や常識の範疇に属するほど頻繁にメディアで流通している。確かに、それは由々しき問題だ。それに対して国家レベルで何ら有効な対策が立案されていないのも事実だ。
 それを認めた上で、異国で生き絶え絶えの昭和の敗残兵たる私は無責任にも想う。
 いや、それ以上に深刻なのは、「内なる異文化」を方法的に内在化しかつ批判的に対象化し、それをさらに優れたものに高め洗練させるという「クールジャパン」のお家芸を日本が忘れかけていることではないか、と。それを忘れたら、日本はほんとうにおしまいなのではないか、と。
 これらの戯言が、ボケが着実に進行しつつある老人の聞くに堪えない馬鹿げた杞憂であることを私は切に願っている。