内的自己対話-川の畔のささめごと

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エドマンド・バーク『崇高と美の起源』を当時の政治・社会・経済的文脈の中で読むことの重要性に気づかされる

2023-02-06 23:59:59 | 読游摘録

 今日明日と法政大学哲学科学部生十九名とストラスブール大学日本学科修士一年の九名との合同ゼミがストラスブール大学において行われる。このゼミはすでに十数年の歴史をもつ。私が日本学科側の責任者として関わり始めたのは赴任した2014/15年度からのことで、今回で九回目となる。昨年と一昨年はすべてオンラインで行われ、それ以前のように日本から同大学の学生たちがアルザスに来ることはコロナ禍ゆえに叶わなかった。それだけに今回三年ぶりに日本から学生たちを迎えることができてとても喜んでいる。今回の合同ゼミのプログラムと中身については明後日に報告する。
 今日の記事では、今回の合同ゼミの課題図書だった中井正一の『美学入門』についての三つの日仏合同チームの発表のうち、エドマンド・バークの『崇高と美の起源』とカントの『美と崇高についての考察』とにおける「崇高」概念を取り上げたチームに対する私からのコメントのなかで言及した、『オラント城/崇高と美の起源』(千葉康樹・大河内昌訳、研究社、「英国十八世紀文学叢書、2022年)のバーク崇高論の訳者である大河内氏の解説の一部を抜粋する。それらの箇所が私自身にとって啓蒙的だったからである。それは崇高論が内包している政治的な意味を考慮することの重要性を氏が強調されている箇所である。
 氏によれば、バークの美学理論が暗黙のうちに内包している政治学は、「近代的な商業社会を擁護するタイプの政治学」である。「美と崇高という一組の美学的概念にバークは、近代の市民社会を統制するための、対立しながらも相補的な社会的機能を託しているのである。」バークは、一方で、美は社会を構成する原理として認めながら、他方では、美と洗練には、「怠惰や憂鬱をもたらすことによって、社会を堕落させる危険」に注意を促す。この文脈でバークがいう美が「当時の社会的・道徳的論争における中心テーマのひとつであった「奢侈」(luxury)の別名であることはあきらかである」と大河内氏は指摘する。バークの崇高論は、「奢侈」批判としての商業批判の言説に対抗しようとして、書かれたものだという。
 「バークの『崇高と美の起源』の注目すべき点は、想像力には過剰な洗練がもたらす堕落を抑制する自己調整機能が備わっているのだと証明しようとしていることである。想像力に内在する自己統制のメカニズムをバークは崇高と呼ぶ。」
 「バークの美学は、趣味の洗練と奢侈を加速度的に生み出す商業市民社会を肯定する政治学を内包している。もし、優れた趣味が、奢侈と怠惰を生み出すだけでなく、崇高による道徳的な訓練を市民に授けるなら、洗練された商業社会は虚弱化と堕落をもたらすという批判は的外れだと主張できるのである。」
 「バークの美学が、大土地所有に基づいた貴族階級へのヘゲモニーに対抗するブルジョア階級の文化的戦略の一部をなしていたことは明白である。」「だが、バークのように趣味を身体構造というあらゆる人間に共通な属性の上に基礎づけてしまえば、市民社会の市民権の条件となる趣味や感受性の領域に、労働者階級や下層階級が参画する可能性に道を開くことになりかねないのである。」
 これらの指摘によって、バークの崇高論を十八世紀英国の政治・社会・経済的な文脈の中に置いて読むことの重要性に私は気づかされた。