内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

第一次大戦前のフランスのある「おてんば娘」の夢見るように幸福な夏のヴァカンスの想い出

2023-02-18 23:59:59 | 読游摘録

 昨日の記事で言及した Marie-Madeleine Davy (1903-1998) のことを彼女のベルジャーエフ評伝 Nicolas Berdiaev ou la Révolution de l’Esprit を読むまではまったく知らなかった。日本語にはシモーヌ・ヴェイユ論が一冊訳されている。ダヴィはヴェイユとほぼ同世代であり、ヴェイユに数回会ってもいる。
 ダヴィは、中世神秘主義を専門とする神学研究者として出発しているが、二十世紀をほぼ覆うその長い人生の中で、広い意味での宗教的体験、特に個人の内的世界の探索者として、そしてその探索を通じての自然とコスモスとの合一へと向かう思索者として、二十世紀フランス思想史において揺るぎない独自の位置を占めるようになる。彼女は研究者という枠に収まらない。作家でもあり詩人でもある。東洋思想にも強い関心を持ち、正確にいつかはわからないが、おそらく1970年代に日本を旅行している。
 ベルジャーエフの評伝を読んでいて、その文章にとても惹かれた。おこがましい言い方だが、何か親和性を感じたのだ。先週彼女の本を六冊一度に注文し、それらを机の上に積み上げて、あちこち拾い読みしている。読めば読むほど惹きつけられる。その中で今夢中になろうとしている一冊がある。こんなことは久しくなかった。
 それは彼女の自伝 Traversée en solitaire, Albin Michel, 2004 (1re édition, 1989) である。今、彼女の少女時代の想い出を語る最初の章を大きな喜びとともに読んでいる。これほど生き生きと魅力的に自分の少女時代のことを語っている文章を私は他に知らない。ところどこに雅語や今ではあまり用いられない文章語が使われている以外は実に平易な文章で、初級フランス語を終えていれば、辞書を片手に一人で読めるだろう。
 第一次大戦前のフランスの良家の「おてんば娘 garçon manqué」が祖母の広壮な館と川に挟まれた広大な敷地の中で過ごした夏のヴァカンスの夢見るように幸福な想い出の数々は、それを読んでいるこちらまで幸福な気持ちにしてくれる。引用したくなる箇所がいくつもある。というか、四十頁ほどの少女時代の章を全部引用したいくらいだ。
 彼女が祖母の家に到着した直後の様子を語っている一段落だけ引用する。

À l’arrivée, après les effusions d’usage, je partais aussitôt dans le jardin. Il me semblait immense. J’allais saluer les arbres, j’embrassais les troncs les plus gros, frottant mes joues contre les écorces. Craignant d’attrister les arbres minces, je tentais de les enlacer. Ensuite, je m’étendais successivement sous les trois tonnelles. M’attardant devant les massifs de fleurs, je posais mes lèvres sur des roses épanouies, sans me rendre compte que ma tendresse les effeuillait. Ramassant les pétales tombés, je les mettais dans ma bouche, les mâchais avant de les avaler. Puis j’allais voir la rivière en guettant les poissons. Je croyais que ma présence provoquait leurs sauts. N’étaient-ils pas des amis heureux de me rencontrer ? Je courais dans la noue où paissait une mule qu’on nommait Fraya. Venant au-devant de moi, elle me laissait passer ma main sur ses naseaux de velours. (p. 18)

 かくしてマリー=マドレーヌ・ダヴィという稀有な女性の生涯と著作に、大変遅まきながらとはいえ、邂逅できたことは私にとって小さくはない幸いの一つである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ドイツとフランスを分かつもの ― 神と神性の区別をめぐって

2023-02-17 10:18:21 | 読游摘録

 先日から何度かニコライ・ベルジャーエフのことをこのブログで話題にしている。ベルジャーエフの宗教哲学がドイツ神秘主義の思想的気圏と親和的であることは、その著作のいくつかによって確認できる。
 例えば、ヤコブ・ベーメ研究(1946年)では、以下のようにエックハルトにおける神(Gott)と神性(Gottheit)との区別に言及されている。

L’Indéterminé divin existe dans l’éternité avant la naissance de la divine Trinité. Dieu s’engendre, se réalise à partir du Néant divin. Ce chemin qui plonge dans la sagesse divine est apparenté à celui sur lequel Maître Eckhart distingue entre la Divinité et Dieu. Dieu en tant que créateur du monde et de l’homme est corrélatif à la création. Il surgit des profondeurs de la Divinité, de l’inexprimable Néant. Telle est l’idée la plus profonde et la plus secrète de la mystique allemande.

Études sur Jacob Boehme, Éditions localement transcendantes, 2020, p. 23.

 この仏訳では Gottheit が Divinité と訳されているが、今日のエックハルト研究では Déité と訳されることのほうが多い。それは、divinité が複数形でも用いられ、その場合は多神教あるいはアニミズムにおける神々も指すことがあり、また、単数形で「神的なもの」という意味にも使われるから、それらの意味との混同を避けるためである。被造物と相関的に語られる神と創造がそこから可能になる無なる根源としての神性との区別はエックハルトにおいて決定的な重要性をもつ。ベルジャーエフにおいても両者は区別されなくてはならない。
 1933年に仏訳が刊行された『精神と自由』でもエックハルトの名とともにこの区別に言及している。

Le grand mérite de la pensée allemande, qui se rattache ici à sa mystique, consiste précisément en ce qu’elle reconnut la profondeur insondable et l’irrationalité de Dieu, fondement premier de l’existence. C’est la « Gottheit » de Eckhart, située plus profondément que Dieu lui-même.

Esprit et liberté. Essai de philosophie chrétienne
Les Éditions « Je sers », 1933, coll. « Écrivains religieux étrangers », p. 92.

この点に関して、Marie-Madeleine Davy の次の指摘は興味深い。

Cette ouverture béante sur le divin — qui apparaît connaturelle — on la trouve assez rarement chez les Français. Elle nous est, au fond, assez étrangère sous cette forme, car elle comporte un élément sauvage, instinctif, d’une intériorité abyssale qui est plus congénitale aux tempéraments russe et allemand. En dehors de Boehme et d’Angelus Silésius, il conviendrait de nommer tout particulièrement Maître Eckhart.

Nicolas Berdiaev ou la Révolution de l’Esprit, Albin Michel, 1999.

 この指摘に従えば、同じく精神の内面性の独立と自律を強調するフランス・スピリチュアリスムとドイツ神秘主義との区別をより明確に規定することができる。と同時に、フランスの神秘主義研究者たちが上の引用に見られるようないわゆるドイツ的な神秘主義に惹かれながらも警戒的な理由もわかる。この傾向は、エックハルト思想と禅仏教の教説との親近性を強調するドイツの一部のエックハルト研究に対して、フランスの研究者たちが概してとても批判的であることにも対応している。


「神秘主義」という閉ざされた戸の前に立ち続ける

2023-02-16 23:59:59 | 読游摘録

 もういつのことか正確には思い出せないが、ドイツ神秘主義に関心を持つようになったのは、西田幾多郎の著作を真剣に読み始めてまもなくのことであったから、もう四十年近く前のことである。特にマイスター・エックハルトには強く惹かれ、当時発売されたばかりの相原信作訳『神の慰めの書』(講談社学術文庫)は以来繰り返し読み、今も手元にある。
 ちなみに、この「ドイツ神秘主義」という呼称は、日本ではいまでも広く使われているようだが(例えば、世界大百科事典には項目として採用されており、その項目の執筆者は上田閑照である)、これに相当するフランス語 La mystique allemande は、ナチスによってドイツ的精神の精華として喧伝されたこともあり、今日ではもはや使われることが少なく、La mystique rhénane(ライン河流域神秘主義)という呼称に取って代わられている。
 この神秘主義への強い関心は以来保たれてきたばかりでなく、それに関連する蔵書の数は増え続け、ちゃんと数えたわけではないが、今では百冊は下らないと思う。しかし、その間、理解が徐々にでも深まったかと問われれば、口籠らざるを得ない。
 その理由は、オイゲン・ヘリゲルが『弓と禅』のはじめの方で述べていることと重なる。自分をヘリゲルに引き較べようなどという度外れな不遜さからではなく、ヘリゲル以上に的確には言えないから、同書(魚住孝至/訳・解説、角川ソフィア文庫、2015年)から当該箇所を少し長くなるが引用する。

私は学生時代からすでに、不思議な衝動に駆られて、神秘主義を熱心に研究していた。そのような関心がほとんどない時代の風潮にもかかわらずに。しかし、いろいろ努力を尽くしても、私は神秘主義の文献を外から取り組むよりほかなく、神秘主義の原現象と呼ばれていることの周りを回っているだけであることを意識し、あたかも秘密を包んでいる周りの高い壁を越えて入ることができないということを、次第に悟るようになった。神秘主義についての膨大な文献においてすら、私が追求しているものを見出せず、次第に失望して、落胆して、真に離脱した者のみが、「離脱」ということが何を意味するかを理解できるのであり、自己自身から完全に解かれて、無になって抜け出た者のみが、「神以上の神」と一つになる準備ができるようになれるのだろうという洞察に達したのであった。それゆえ、私は、自らが経験すること、苦しみを味わい尽くすこと以外には、神秘主義に至る途はないこと、この前提が欠けている場合には、神秘主義についてのあらゆる言明は、単なる言葉のあげつらいに過ぎないということを悟ったのである。[中略]神秘主義的な経験は、人間がどんなに思い願っても、こちらへもたらされ得ないということではないのか。いかにして、それに手掛かりをつけようか。私は自らが閉ざされた戸の前に立っていることに気づいたが、繰り返し戸を揺さぶることをやめることもできなかった。しかし憧れは残っていた。うんざりはしていたが、この憧れに対する強い思いはあったのである。(72‐74頁)

 ヘリゲルの言葉を借りることが許されるならば、私もまた「閉ざされた戸の前に立っている」のだが、諦めてそこから立ち去ることもできずに愚図愚図しているうちに四十年近くが経ってしまった。
 しかし、そんな私にも「導師」とも呼べるような書物との出会いはこれまでに何度かあった。そのおかげで、その内側がまったく見えない高い戸と壁に囲まれた神秘主義に向き合い続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ヨーロッパを内側から揺るがす「異物」としてのロシア

2023-02-15 20:53:15 | 雑感

 岩波書店の新日本古典文学大系39巻『方丈記 徒然草』で『方丈記』の注解を担当された佐竹昭広氏がその序文でニコライ・ベルジャーエフ(1874‐1948)の葛藤型についての分類に言及していることを一昨日12日の記事で話題にした。
 そのベルジャーエフの諸著作の日本語訳の出版年を通覧すると、1940年代から1960年代にかけてかなりの読者を獲得していたことが推測できる。邦訳の出版書目とその再版の頻度からして、とりわけドストエフスキー論・マルクス論・終末論・歴史論・実存主義への関心から読まれていたことがわかる。そのような文脈においてベルジャーエフの思想へ関心が高かったのであろう。
 その関心への誘因として、ベルジャーエフにとって年上の友人であるレフ・シェストフ(1866‐1938)への関心がそれに先立っていたことは間違いない。30年代から40年代にかけての日本の知識人たちへの影響力としてはシェストフの方が大きかったことは、1934年に刊行された河上徹太郎訳『悲劇の哲学』が「シェストフ的不安」という造語を生んだことからも想像できる。
 しかし、その後の両者への関心の低下は、シェストフに対してもベルジャーエフに対しても、ほんとうに実存的関心をもって読まれることはなかったのではないかと疑わせるに十分である。
 今日の日本において、シェストフとベルジャーエフへの関心が、ロシア近代思想史の専門家あるいは二十世紀前半の近代日本思想史の専門家(の一部)以外にどれほど保たれているのだろう。専門家を除けば、名前さえ聞いたことがないという人も少なくないのではないだろうか。
 ヨーロッパ二十世紀前半のキリスト教的実存主義は、もはや過去の「遺物」であり、その限りでの思想史的関心の対象ではありえても、思想として今日まともに取り上げるに値しないという考えが今日支配的であるとすれば、両者に対する一般的無関心はその当然の帰結であり、なんら驚くに値しない。
 この点、フランスでの事情は異なる。両者への関心は、今日、再び高まりつつある。その関心は、両者が1917年ロシア革命後にロシアで迫害を受け、結果としてフランスへ亡命したという歴史的事実の共通点があるからだけではない。むしろそれは副次的な条件にすぎない。
 ことはヨーロッパ近代思想史にとって内在的な、もっと本質的な部分に関わる。「ヨーロッパ」にとって、「ユダヤ」が排除し難い内在的な「異物」であるのとはまた違った意味で、「ロシア」もまた、無視し難い非ヨーロッパ的な「異物」なのだ。これにさらに「アラブ」が食い込んでいる。それは中世からのことだ。
 60・70年代の日本のいわゆる西欧派知識人たちでこのことを明確に認識できていた人がどれだけいたか。井筒俊彦の名を挙げる人がいるかもしれない。しかし、彼はいわゆる西欧派の枠に収まる思想家ではない。それを超えた学殖と視野があったからこそ、「ヨーロッパ」を相対化する方法的態度を形成することができた。
 現在のヨーロッパが行く先を見失い混迷しているとすれば、それは自己中心的な「西欧的原理」が内在的批判の対象になっているからではない。端的に言えば、これまでヨーロッパが抑圧しつつ内に取り込み見て見ぬ振りをしてきた、内なる「アラブ」「ユダヤ」「ロシア」から復讐されているからである。そして、内なる「アフリカ」からの異議申し立てもヨーロッパを揺るがしつつあることを今さら言い添える必要があるだろうか。
 翻って日本のことを想う。
 近代日本を支えてきた技術立国の基盤が揺るがされているという批判は、今や常識の範疇に属するほど頻繁にメディアで流通している。確かに、それは由々しき問題だ。それに対して国家レベルで何ら有効な対策が立案されていないのも事実だ。
 それを認めた上で、異国で生き絶え絶えの昭和の敗残兵たる私は無責任にも想う。
 いや、それ以上に深刻なのは、「内なる異文化」を方法的に内在化しかつ批判的に対象化し、それをさらに優れたものに高め洗練させるという「クールジャパン」のお家芸を日本が忘れかけていることではないか、と。それを忘れたら、日本はほんとうにおしまいなのではないか、と。
 これらの戯言が、ボケが着実に進行しつつある老人の聞くに堪えない馬鹿げた杞憂であることを私は切に願っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


鴨長明『無名抄』― 興趣尽きない和歌随筆

2023-02-14 08:29:16 | 読游摘録

 現代では、鴨長明は『方丈記』の作者として著名であるが、本人が生きていた時代には、歌人としてよく知られ、管絃にも巧みな当代一流の文化人の一人であった。その長明が書き遺した歌学書・歌論書が『無名抄』である。昨日の記事でも言及したが、執筆時期に関しては、『方丈記』『発心集』との前後関係は不明である。
 角川ソフィア文庫版の久保田淳氏の解説によると、『無名抄』はそれ以前に現れた歌学書・歌論書とは大層趣を異にする作品である。論としての一貫した構想らしいものはなく、「ところどころ連想の糸でつながりながら、硬質な歌論的部分と肩のこらない随想的乃至説話的部分とがないまぜなっている作品」であり、「歌論書というよりむしろ和歌随筆または歌話とでも呼ぶほうがふさわしいとすら思われる」と久保田氏は評している。
 たとえば、「会の歌に姿分かつこと」では、自らの歌人としての誉れをなつかしく回想し、それに続く「寂蓮・顕昭両人のこと」では両者の人柄を自らの経験に照らして比較・評価した後、「そもそも、人の徳を讃めむとするほどに、わがため面目ありし度のことながながと書き続けて侍る、をかしく。されど、この文の得分に、自賛少々混ぜてもいかがはべらむ」(「さて、人の徳を讃めようとして、自身のために名誉であった時のことを長々と書き続けましたのは、おかしなことで。けれども、この文章の役得として、自讃を少々混ぜても、どうでしょう。大目に見ていただけるのではないでしょうか」久保田淳訳)と、ちょっと茶目っ気混じりに自己弁護したかと思うと、それに続く段では、和泉式部と赤染衛門の歌人としての優劣の評価の時代による揺れの理由を式部の名歌二首を例にとりつつ見極めながら、秀歌とは何かという大問題について犀利な論を展開する。
 自身の歌人としての経験と才能と見識に裏打ちされた、まさに随筆と呼ぶのがふさわしい興趣溢れる作品である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『発心集』でも発揮される災害描写の筆の冴え

2023-02-13 23:59:59 | 読游摘録

 『発心集』(角川ソフィア文庫、2014年)は上下二巻からなり、一〇六の仏教説話が集められている。成立年は正確にはわからず、一二一二年成立とほぼ確定されている『方丈記』の前なのか後なのかもわからない。長明の没年は一二一六年、ほぼ六十二歳で亡くなったと推定され、『発心集』『無名抄』ともに長明晩年の作品だとは言うことができるようである。
 『発心集』には、「武蔵国入間河沈水の事」と題された水害の話が一つ収められている(第四-九)。入間川の氾濫による大洪水の話である。その描写は、長明自身がこの眼で見たかと思われるほどに迫真性に富んでいる。浅見氏は解説で、長明が建暦元年(一二一一)に鎌倉に下向したとき、川越まで足を延ばし、そこで洪水の被災者たちから生々しい話を聞いた可能性を示唆しているが、これは史料的根拠のない推定に過ぎない。
 仮に被災者たちから話を聞く機会があったとしても、それだけで水害についてあれほど現場性のある叙述ができたわけではないだろう。浅見氏が言うように、『方丈記』で見せた災害描写の筆の冴えは『発心集』でも発揮されている。
 堤防が決壊し、瞬く間に洪水が川沿いの村に広がり、官首(かんじゅ)という男の家が家族もろとも河口の方に流されていく場面を引こう。

 ある時、五月雨日ごろになりて、水いかめしう出でたりけり。されど、いまだ年ごろの堤の切れたることなければ、「さりとも」と驚かず、かかるほどに、雨、沃(い)こぼす如く降りて、おびただしかりける夜中ばかり、にはかに雷の如く、世に恐ろしく鳴り響(どよ)む声あり。この官首と家に寝たる者ども、みな驚きあやしみて、「こは何ものの声ぞ」と恐れあへり。
 官首、郎等をよびて、「堤の切れぬると覚ゆるぞ。出でて見よ」といふ。すなはち、ひき開けて見るに、二、三町ばかり白みわたりて、海の面と異らず。「こは、いかがせん」といふほどこそあれ、水ただ増りに増りて、天井までつきぬ。官首が妻子をはじめて、あるかぎり、天井に登りて、桁梁に取り付きて叫ぶ。この中に、官首と郎等とは葺板をかき上げて棟に登り居て、いかさまにせんと思ひ廻らすほどに、この家ゆるゆると揺ぎて、つひに柱の根抜けぬ。つつみながら浮きて、湊の方へ流れて行く。

 全文は文庫本で数頁(私が所有しているのは電子書籍版なので正確に言うことができない)。ご興味をもたれた方は是非原文をお読みください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


鴨長明に対してニコライ・ベルジャーエフによる葛藤型一と二の区別を当てはめることができるか

2023-02-12 12:36:20 | 読游摘録

 佐竹昭広氏は、そのお弟子さんの一人によると、大学の授業でしばしば文学研究にとっての哲学の素養の必要性を強調されていたそうである。確かに、氏の著作には骨太な哲学的思索がその背景にあることが読み取れる箇所が少なくない。哲学的考察が前面に打ち出され、そこからやおら日本の古典に対してそれが適用されることもある。その典型を『方丈記 徒然草』(新日本古典文学大系)の巻頭の序に見ることができる。
 そこで意表をつくようにまず言及されるのは、ロシアの哲学者ニコライ・ベルジャーエフ(1874‐1948)による人間の孤独と社会についての分析である。書名は挙げられていないが、佐竹氏による要約からして、『孤独と愛と社会』を参照していることはほぼ間違いない。同書の邦訳は、1954年に氷上英廣訳が社会思想社から現代教養文庫の一冊として刊行され、1960年代に白水社版著作集の第四巻にも氷上英廣訳が収められている。さらに、1982年に同じく白水社から『哲学思想名著選』の一冊として刊行されている。この三者が同一訳か後二者がそれぞれ先立つ訳の改訳なのかは調べる手立てがないのでわからない。それはともかく、佐竹氏はこのいずれかの版を参照したことは間違いない。
 ベルジャーエフによる葛藤型一と二の区別が興味深いので、少し長くなるが、佐竹氏の要約を引用する。ちなみに、仏訳 Cinq méditations sur l’existence. Solitude, société et communauté, traduit du Russe par Irène VILDÉ-LOT, Paris, Aubier, Éditions Montaigne, Collection « Philosophie de l’esprit », 1936, 209 p.こちらのサイトから無料でダウンロードできる。 

その一は、孤独であって、社会的でない人間。この型の人間は、社会的環境に全然、あるいはごく僅かしか適応していない。多くの葛藤を体験し、非調和的である。彼は自己を取り巻いている社会的集団に対してなんら革命的傾向を示さない。彼は簡単に社会的環境から孤立し、逃避し、自己の精神生活と創造をそこから引き離す。抒情詩人、孤独な思想家、根を持たない耽美家はこれに属する。その二は、孤独であって、社会的であり得る人間。これは預言者の型である。彼は決して社会的環境、世論と調和することがない。預言者は世に容れられざる者であり、激しい孤独と寂寥を体験する。場合によっては全周囲から迫害される。しかし、預言者が社会的でないとは言えない。むしろその反対である。彼は常に民族と社会に批判を加え、それらを裁き、しかも常に民族と社会の運命の内に没する。ベルジャーエフは、右の二つを「葛藤型」と名付け、孤独とは無縁な人々、「調和型」の人間と区別した。
 顧みて中世という時代は、葛藤型の思想家、文学者が輩出した時代であった。葛藤型の二として、私たちは直ちに法然、親鸞、日蓮など鎌倉仏教の代表者たちの名を挙げることができる。葛藤型の一には、西行、長明、兼好などの数々の文学者がいる。後者の孤独は、中世では必然的に仏教的厭世思想と結び付き、彼らに遁世閑居という隠遁の生き方を選ばせた。遁世閑居の精神生活と創造は、西行の山家集を生み、長明の方丈記を生み、兼好の徒然草を生んだ。

 こうした二分法は、問題を明確化するのに有効なときがある一方、他方で個々の事例を図式に割り切りすぎ、現実のニュアンスを取り逃がすことがある。葛藤型の二に、法然、親鸞、日蓮を分類するのは一応承認するとして、道元の場合はどうであろうか。一に分類できないのは言うまでもないとして、二に分類することも躊躇われる。
 佐竹氏が葛藤型の一に分類している三人も同断には論じられないと私は思う。『方丈記』に見られる五大災厄の卓抜な描写は、長明が単に傑出した文章家であるだけでなく、鋭い観察眼をもった卓越した「災害レポーター」でもあることを示している。これは人間社会に対する並々ならぬ関心なしにはありえないことである。「社会的環境から孤立し、逃避し、自己の精神生活と創造をそこから引き離」した人間にどうしてあのような描写ができたであろうか。それは『発心集』に見られる人間観察力についても同様である。
 長明は、葛藤型の一に収まるにはあまりにも鋭い観察眼を備えていた。しかし、他方、社会に対して積極的に批判を行うにはあまりにも実人生で失望と幻滅を味わい過ぎたがゆえに、葛藤型の二のような社会にコミットする闘争的人生を送ることもできなかった。この意味で、一と二の狭間にこそ長明の生涯の境位はあったと言えるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「ユク河」考 ―『方丈記』はなぜ水害については語っていないのか

2023-02-11 23:59:59 | 読游摘録

 昨日の記事で言及した『発心集』(角川ソフィア文庫、二〇一四年)の浅見和彦氏による解説を読んでいて、ふと気になったことがあるのでここに記しておく。
 浅見氏は同書の解説の中で、「地・水・火・風の四大種による災害のうち、長明は地・火・風の三つは『方丈記』中で話題として取り上げているものの、なぜか水災についてはふれていない」と指摘している。長明がその辺りに住んでいたこともある鴨川は当時度々氾濫し、その被害は甚大なこともあった。長明は『方丈記』の中で卓越した描写力で五大災厄 ― 安元三年(一一七七)の大火、治承四年(一一八〇)の辻風、同年の福原遷都、翌養和元年(一一八一)ごろから始まった養和の大飢饉、元暦二年(一一八五)の大地震 ― を活写しているだけに、当然見聞きしたことがあると推測できる鴨川の水災についてなぜ言及しなかったのか、確かに気になるところである。
 この疑問に関して、浅見氏は、『方丈記』の巻頭を引いて、「静かに美しく流れる川の姿を書きとめている」と見なし、「おそらくそうした『方丈記』の基調と水害、水難は相容れなかったのであろう。長明は四大種の災害のうち水災をはずしていたのである」と推定されている。
 ここを読んで、果たしてそうだろうかと疑問に思い、にわかには納得できなかった。というのも、かの有名な巻頭の川の描写「ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず、よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて……」から、「静かに美しく流れる川の姿」を私はイメージしていなかったからである。逆巻く急流とまではいかないにしても、「静かに美しく流れる川」というイメージは巻頭の描写から自ずと引き出せるとは思えない。
 長明は、現実のある河をイメージしながら冒頭を書いたのだろうか。簗瀬一雄氏は角川ソフィア文庫版『方丈記』の補注一で、『論語』の子罕篇と『文選』(第十六)陸士衡の歎逝賦一首幷序から、それぞれ川を描写した箇所を挙げ、『方丈記』の冒頭はそれらに依拠していると推定されている。さらに、『万葉集』に収められた柿本人麻呂歌集の「巻向の山辺とよみて行く水の水沫のごとし世の人われは」(巻七)は、『拾遺集』にも見え、同集は長明が読んだ歌集であるから、この歌との関係を強調する説もあると付け加えている。しかし、補注二で、「世の無常を水の泡にたとえていうのは、前項の歌をはじめとして、きわめて多い。そしてこれらは、仏典を根拠としている」と注記されている。
 長明はこれらの典籍を念頭に置いて『方丈記』の冒頭を書いたとすれば、「ユク河」は長明がその眼で見たことがある川をイメージしたものではなく、世の無常を語るときしばしば用いられた伝統的イメージに従ったに過ぎないということになる。
 ところが、『新編日本古典文学全集』四十四巻『方丈記 徒然草 正法眼蔵随聞記 歎異抄』(小学館、一九九五年)で神田秀夫氏は、頭注の冒頭に、「「ゆく河」の影像は作者熟知の賀茂川で得られたものという説を三木紀人氏から聞いた記憶あり。卓見と思う」と記されている。他の研究者から聞き及んだ説を紹介しているだけで、論拠とは言えないが、長明が熟知していた鴨川をイメージしながら『方丈記』の冒頭を書いたという説もまったくの無根拠として捨て去ることもできないとは言えそうである。
 もしこの説を支持するとなると、上に見た浅見氏による「ゆく河」のイメージとは一致しなくなる。そして、その「静かに美しく流れる川」のイメージと水害・水災・水難のイメージとが相容れないから、水によって引き起こされた災厄は『方丈記』では言及されていないとする推論は成り立たなくなる。
 岩波の『新日本古典文学大系』三十九巻『方丈記 徒然草』(一九八九年)の佐竹昭広氏の脚注にも触れておきたい。「河の駛流(しる)して、往きて返らざる如く、人命も是の如く、逝く者は還らず」(法句経・無常品)に拠る。「ユク水」と言わず、用例の稀な「ユク河」の語を用いているところから、法句経に依拠したと推測する」と典拠を推定されている。
 確かに、常識的に考えれば、往きて返らぬのは水であって、川ではない。それゆえ「ユク河」は用例が稀という佐竹氏の指摘は首肯できる。しかし、それだけでは、『方丈記』がなぜ水害については語ることがなかったのかという問いに対する答えには繋がらない。
 それに、浅見氏が『発心集』の解説で言及されているように、同書には武蔵国入間川の洪水の話(四―九話、武州入間河沈水の事)が収められており、その描写の筆の冴えは『方丈記』のそれに劣らない。
 『方丈記』に水災の記述がないのはなぜかという最初の疑問に対する答えは結局得られないままだが、ひとしきり芋蔓式読書を楽しむことができたことで今日はよしとする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


芋蔓式読書を続けて芋蔓に絡み取られて身動きが取れなくなって溜息をつく。それでも心の観察は続ける。

2023-02-10 09:29:24 | 読游摘録

 私の読書の仕方はしばしば芋蔓式です。方法とは言えません。ある本のある一語あるいは一文が気になって、それについて調べるために別の本を幾冊か読み、それらの本に参考文献として挙げられている論文や書籍へとさらに読書の範囲が広がり、その広がりの中で一つの蔓を辿り続けます。ですから、しばしば終わりがなく、かといっていつまでも蔓を辿り続ける時間も現実にはないので、途中でその蔓を手放し、また別のきっかけで別の蔓を辿り、それを途中で投げ出すということを繰り返しています。結果として、私の机の上にはそのようにして投げ出された蔓が何本も絡み合っており、それらの蔓に私自身もまた絡み取られて身動きが取れなくなって往生しては溜息をついています。そんな読書が私の日常の大半を占めています。だから何をやっても中途半端で駄目なのです。昨日の話題との繋がりで言えば、芋蔓を辿っているときの楽しさにかまけて、本当に向き合うべき問題から逃げ回っているだけなのかも知れません。この歳になってこの体たらくはさすがに情けないとつくづく思います。
 それはさておき、一昨日、授業の準備をしていて、鴨長明『方丈記』のフランス語訳(Notes de ma cabane de moine, Traduit du japonais et annoté par le Révérend Père Sauveur Candau. Postface de Jacqueline Pigeot, Le Bruit du temps, 2010)を読み直していて、『方丈記』以外の長明の作品の仏訳を確認しようとネット上で検索すると、『無名抄』も『発心集』も同じ出版社からそれぞれ Notes sans titre, Récits de l’éveil du cœur というタイトルで2010年と2014年に刊行されていました。この二作品を授業で取り上げるわけではないのですがが、一応参照はしておきたいとFNACに注文しました。
 原文も確認しておこうと以前に購入してあった角川ソフィア文庫版の『発心集』(浅見和彦・伊東玉美=訳注、二〇一四年)と『無名抄』(久保田淳=訳注、二〇一三年)の電子書籍版を開いてみました。
 『発心集』序の冒頭に、仏の教えとして「心の師とはなるとも、心を師とすることなかれ」という一文が掲げられています。この一文は長明の発明によるものではなく、もともとの出典は『涅槃経』です。『日本霊異記』中巻の序には「心の師となして、心を師とすることなかれ」とあります。「自分の心を導く師となるように心がけ、自分の欲心のままに行動することはしてはならなない」(新潮日本古典集成版一〇六頁頭注一〇)の意。源信の『往生要集』大文第五には、「もし惑、心を覆ひて、通・別の対治を修せんと欲せしめずは、すべからくその意を知りて、常に心の師となるべし。心を師とせざれ」(岩波日本思想大系『源信』一八四頁)とあります。その他の仏教書にも同様の表現が見られます。長明はそれらを念頭に置いて『発心集』の冒頭にこの一文を記したのでしょう。
 私はと言えば、心の師となるどころか、心を師と仰いでしまうことがしばしばあります。『涅槃経』の現代日本語訳である中村元訳『ブッダ最後の旅』(岩波文庫、一九八〇年)には、尊師(ブッダ)が弟子アーナンダに語りかけているこんな一節があります。

この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。では、修行僧が自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるということは、どうして起こるのであるか?
 アーナンダよ。ここの修行僧は身体について身体を観じ、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 感受について感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
 アーナンダよ。このようにして、修行僧は自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。
 アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、―誰でも学ぼうを望む人々は―。

 修行僧ではない私は「法を島とし、法をよりどころと」することはできませんが、せめて感受・心・諸々の事象の観察には熱心でありたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


パッとしない心の観察記録でも書き続けることの私にとっての意味

2023-02-09 23:59:59 | 雑感

 ちょっと、ボソッと独り言のようなツマラナイ話です。
 水泳を二〇〇九年八月から二〇二一年六月まで十二年近く続けていたとき、日によっては、ちょっと疲れていたり、気分的に落ち込んでいたりして、プールに行くのが億劫になったこともありましたが、それでも泳ぎに行って、泳いだ後に泳いだことを後悔したことはただの一度もなく、いつもやっぱり泳いでよかったと心地よい疲れとともに思ったものでした。
 一昨年から始めたジョギングについても同じことが言えます。脚に疲れや痛みを感じることがジョギングを始めた当初はわりとよくありましたが、それでも無理にならない程度に走ると、やはり走った後には気分がすっきりしました。それは今も変わりません。
 最近、ネット上で、ジョギングを休めない人たちに警鐘を鳴らすフランス語の新聞記事を読みました。簡単にまとめれば、ジョギングによって得られる「疑似」達成感によって、本当に向き合うべき問題から逃げている自分をごまかしている場合があるということです。
 自分に当てはまるかどうか自問してみましたが、それはないと思います。あれこれ気晴らしや現実逃避の手段を考えることなく、ただ単純に走るだけで毎日一回気分がリセットできているだけで満足しています。走る前後には普通に仕事をし、平凡きわまりない日常生活を送っています。
 さて、このブログはどうでしょうか。運動と同じような効果が得られているかというと、それはちょっと微妙です。
 書きたいことがあって書くときには、自ずと「筆が走り」ますが、気が乗らない日も確かにあり、それでも書くのは、休みたくないからという以上の積極的な理由があるのかどうか、続けているという自己満足が得たいがために続けているだけではないのか、と自問せざるを得ません。そして、これらの問いを二度と繰り返すことがないほどにきっぱりとした答えを出した上で、続けていくことができる状態にも今はありません。
 現時点で辛うじて言えることは、そうしたパッとしない自分の心の状態の観察記録を残すことも、他の人にはまったく無意味でも、私自身にとっては、そのような心に支配されないための一手段ではあるということです。