内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

人間の自然本性としてのミメーシス(模倣)

2023-02-07 23:59:59 | 読游摘録

 昨日の記事で言及したのとは別のもう一つのグループは「ミメーシス」概念を中心的に取り上げた。中井正一自身、『美学入門』で数回ミメーシス(中井は「ミメジス」と表記)に言及しているだけでなく、他の著作でも度々言及しているから、そのことだけからでも、「ミメーシス」を軸にして発表を構成することは妥当な選択だ。そして、考察の出発点としてアリストテレスの『詩学』における悲劇の定義を選んだことも、中井のミメーシスをめぐる議論をより限定された場面において考察するためには適切な判断だ。
 しかし、それにしても、ミメーシスは西洋哲学史・文芸思想史に古代から現代まで通底する根本概念の一つであるから、容易には扱えないテーマである。以下、光文社古典新訳文庫の『詩学』(三浦洋訳)の訳と注から、いくつか重要な論点を書き抜いておく。
 叙事詩、悲劇、喜劇、抒情詩、演劇などでの伴奏、それらすべては総じて「模倣」であるとした上で、アリストテレスは、それらが次の三つの点で互いに異なるという。すなわち、模倣に用いる素材、模倣する対象、模倣する方式という三点においてである。
 画家が対象の色や形を真似て、その像を絵の具でキャンバスの上に描くように、詩人がストーリーの中で主人公の行為を描くことは、言葉を駆使して行為を真似ること、すなわち模倣することである。このような創作上の「模倣」が、真似を得意とする人間の自然本性に由来するというのが『詩学』の主張である。
 この模倣が人間に自然本性に由来するという考えは、『詩学』第四章のはじめの方に示されている。「模倣することが人間には幼少期から、自然本性的に備わっているため、他の動物とは違って、最も模倣を得意とし、最初期の学習も模倣を通じて行う。」
これら考えを前提として、悲劇の本質が定義される(第六章冒頭)。

悲劇とは、真面目な行為の、それも一定の大きさを持ちながら完結した行為の模倣であり、作品の部分ごとに別々の種類の快く響く言葉を用いて、叙述して伝えるのではなく演じる仕方により、[ストーリーが観劇者に生じさせる]憐れみと怖れを通じ、そうした諸感情からのカタルシス(浄化)をなし遂げるものである。

 これだけ読んだだけでも、ミメーシスについて論じるということは、たとえそれを芸術論の枠の中に限定して行うとしても、人間の本性としての「模倣」についての理論的考察を抜きにはできないことがわかる。今回の発表までの準備過程を通じて、学生たちがそのことに気づけただけでも、「ミメーシス」を取り上げた意味はあったと言ってよいと思う。