内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「神の中なる我が苦悩、それは神そのものが我が苦悩である」― マイスター・エックハルト『神の慰めの書』から遠く離れて

2023-02-25 21:31:50 | 雑感

 「焼きが回る」という表現を『新明解国語辞典』で引いてみると、「焼き」の項の㋥「刀を熱して水に入れ、冷やして堅くすること」の用例として、「―が回る」が挙げられており、その第一の意味が「必要以上に熱が加えられて、かえって切れ味が鈍る」、第二の意味が「年を取り役に立たなくなる」となっています。この第二の意味で「焼きが回った」のが今の自分であるとつくづく思わざるを得ません。何か特にそう思わせるきっかけが最近あったわけではありません。日頃の積み重ね(って、この場合もちろんネガティブな意味ですが)がそう思わせるわけです。
 それはさておき(この表現は「それはそれとして」と並んで私のお気に入りの表現です)、マリー=マドレーヌ・ダヴィの諸著作を読んでいると、マイスター・エックハルトへの言及がかなり頻繁にあって、エックハルトへの強い関心を数十年来持ち続けている老生としては、どの著作が参照されているのかとても気になります。
 1943年12月、ドイツ占領下のパリで彼女が講義をしていると、そこに突然ドイツ人将校が二人入ってきます。レジスタンスの闘士であったダヴィは、その場での逮捕、そして処刑を覚悟せざるを得ませんでした。そのとき彼女にできたことは、講義を最後まで平静に終えることだけでした。幸いなことに、将校たちは彼女を逮捕に来たのではなく、その一人がドイツ神秘主義の研究者で、彼女との面談を申し込みに来たのでした。
 しかし、レジスタンスの闘士という立場からして、彼女はその求めをきっぱりと拒否します。講演後、自宅に戻ってから彼女は自分の取った態度が正しかったか自問します。そして、このような苦悩の意味を考えます。そこでエックハルトの『神の慰めの書』の一節が引用されます。彼女が引用しているのは Ancelet-Hustache の仏訳ですが、それとほぼ対応する箇所を、ダヴィの引用よりもう少し長く、相原信作訳(講談社学術文庫、1985年)によって引用しましょう(ほんの一部改変してあります)。

善き人が神のために悩むところのすべては、彼は実に御自ら彼とともに悩み給う神の中において悩むのである、実に私の悩みは神の中にあるのであり、したがって私の悩みは神そのものである。もしかくして悩みと痛苦とが、痛苦を失うならば、悩みは私にとっていかにして痛苦であり得よう。神の中なる我が苦悩、それは神そのものが我が苦悩であることを意味する。(161-162頁)

 この一節を読み、他人事ではなく、自分の苦悩が何に起因するのか、自問せざるを得ません。確かなことは、「善き人」ではない私が神において悩んでいるはずはなく、したがって、神が私において悩み給うているのではなく、私は小さな私の中で悩み、悩みは悩みのままであり、それによって引き起こされる痛苦は痛苦のままであり、ただそのことだけが自分もまだ死んではいない証であり、まだ終わりではないのか、いつまで続くのだろうということが辛くもあり、しかし絶望するわけにもいかず、明日も目覚めたのならば、その一日を辛うじて生きられるかどうかという瀬戸際の綱渡りです。