内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「近代日本の歴史と社会」前期期末試験問題 ― 明治期の近代化に会読と漢文訓読体が果たした役割

2021-12-21 11:35:24 | 講義の余白から

 「近代日本の歴史と社会」の授業では、ここ四年間、明治日本の近代化過程を江戸期からの連続性の相の下に捉えるという視角から、前期は、「キリスト教の世紀」と呼ばれる16世紀後半から所謂「鎖国」体制が確立するまでの約一世紀弱の間の西洋との「ファースト・コンタクト」から話を始め、明治新政府の1870年代の諸政策あたりまでを考察対象としている。その三世紀あまりを通史的に辿るのではなく、近代日本を準備する諸要素の中のいくつかに焦点を合わせてテーマ別に話す。毎年少しずつ内容を手直ししてはいるが、基本的視角に変更はない。
 今回の期末試験は、授業で二回に渡って取り上げた前田勉の『江戸の読書会 会読の思想史』(平凡社ライブラリー 2018年 初版 平凡社選書 2012年)の付論「江戸期の漢文教育法の思想的可能性―会読と訓読をめぐって」の読解を前提とした出題である。出題も解答言語もフランス語である。

En vous référant explicitement au texte intitulé「江戸期の漢文教育法の思想的可能性」, disponible à la page du cours Histoire et société du Japon moderne (HSJM) sur Moodle, répondez à la question suivante :

Pourquoi et de quelle façon le kaidoku (会読) et le kanbun kundokutai (漢文訓読体) ont pu contribuer à la modernisation du Japon à l’ère Meiji ? 

 江戸期に一般化した会読と古代から連綿と実践されてきた漢文訓読体とが、なぜ、どのような仕方で、明治期の日本の近代化に貢献したのか。この問いに対する答えは、上掲の「江戸期の漢文教育法の思想的可能性」の中にわかりやすく示されており、しかもそれについて授業で詳しく解説したから、授業を真面目に聴いていた学生には、特に試験準備もせずに答えられるような易しい問題である。
 ただ、先週金曜日、問題を発表し、出題意図を説明したとき、「ただ付論の内容を引き写しただけの答案には、合格点はあげるが、いい点数はあげないからね。会読と漢文訓読体について自分でさらに調べ、それを盛り込んだ解答を期待しているよ」と釘をさしておいた。
 参考文献として、齋藤希史の『漢文脈と近代日本』(角川ソフィア文庫 2014年 初版 日本放送協会 2007年)を挙げた。論述を発展させるためのヒントとして、中江兆民がなぜ自著でも西洋思想の翻訳でも漢文訓読体を採用したか、考えてみると面白いだろうと示唆した。
 といっても、学生たちにしてみれば、他の授業で課された年末が期限のレポートもあり、一月第二週には主要科目の試験もあるから、せいぜい最小限の準備をする時間しかしないであろう。その準備のためにどう時間と労力を配分するかは学生自身の判断による。
 成績判定会議の席ですべての成績を見比べるとき、どの学生がどの科目に「賭け」、どの科目を「捨てた」かがよくわかる。このような「計算」は昔からあったが、二十年ほど前に導入された成績相殺制度が学年ごとに科目を問わずに適用されるようになってから著しくなった。
 極端なケースでは、主専攻科目はすべて合格点以下なのに、好得点が得やすい選択科目で点数をがっぽり稼いで、それで相殺し、総合平均で最低合格点(二十点満点の十点)を得ることが可能であり、実際にそれを狙っている学生がいることも事実である。このような制度の「合法的」悪用を防ぐためには、主要科目の採点をものすごく厳しくするしかない。
 しかし、これにも限界がある。相殺制度の全面的廃止は無理としても、悪用を防ぐために有効な措置は必要だ。再来年度からの新カリキュラムでそれが導入されることを期待したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「日本の文明と文化」の中間試験と期末試験の問題 ― ムスビの思想と「こと/もの」の世界観

2021-12-20 12:04:19 | 講義の余白から

 私が担当している学部三年生対象の三つの授業のうち、 « Civilisation et culture japonaise »(日本の文明と文化)という何とも漠然としたタイトルの二時間の授業はすべて日本語で行う。試験問題も日本語、学生も答案は日本語で書かなくてはならない。10月の中間試験のときのことについては10月18日の記事で話題にした。
 この中間試験の問題は以下の通り。

映画『君の名は。』に見られるムスビの思想を説明してください。

その説明の中に「かたわれ時」と「たそがれ時」という言葉を必ず入れてください。

 『君の名は。』の中で一葉が三葉と四葉にムスビの思想を説明するシーンを授業で見せた。「かたわれ時」という辞書には載っていない言葉が映画で使われている三つのシーンも見せた。そして、両者の関係について授業で一時間かけて説明した。だから、私の日本語での説明を理解できていた学生たちには、どちらかと言えば与し易い問題であった。
 期末試験問題は、それに比べると、より高度な思考力と日本語での表現能力が求められる。じっくりと考える時間を学生たちに与えるために、試験四週間前である先週月曜日にその問題を告知した。授業で説明した「もの」と「こと」の区別を前提にする問題なのであるが、その区別は『古典語基礎語辞典』(角川学芸出版 2011年)に依拠している。この辞典の「こと」と「もの」の項の解説のほぼ全文を資料として与えた上で、以下のような問題を与えた。

上の文章による「こと」と「もの」の定義を前提として、「こと」と「もの」の区別に基づいた世界観を説明してください。

 漠然とした問い方にしてあるのは意図的である。与えられた資料をどこまで読み込み、そこから世界観を引き出せるかどうかを問うためである。資料を読まずに、別の辞書のもっと簡単な定義に依拠したことが明らかな答案には、たとえ整合的な議論が展開できていても、合格点はあげない。
 資料として与えた辞書の解説は以下の通りである。

こと【言・事】

 コトはモノ(物・者)と対比すると特性が明らかになる。モノは人間にとって、変えることのできないきまり、また、変えることのできない存在をいう(もう一つ、別に怨霊の意のモノがある)。それに対し、人間の力で果たすことのできる義務、意欲的に可能な行為をコトという。行為は二つに分けられる。その一つは音声による、またその延長としての文字による行為。これをコト(言)とする。その二つは音声以外の、手、足、全身の力によってする行為。これをコト(事)とする。コト(言)もコト(事)も人間どうしの間でかわされる社会的な行為であるが、共にコト一つで表現されるから、奈良・平安時代の例では「言」であるか「事」であるか明確に区別できないものが少なくない。
 コトは本来人間の社会的もしくは義務的行為であるから、「言」のほうでは、約束・命令・報告・便り・挨拶の意を含む。「事」のほうでは、義務的な仕事・任務・政務、また行事・儀式の意が基本である。そこから「言」は、言語・伝承・詩歌、またその結果生じる噂・取り沙汰へと広がった。「事」のほうは、目的ある仕事、またその結果生じる出来事・事件・事変・事態・事実、さらにはその事情・理由、時間的に変更可能なことを広く指すに至った。
 また、行事・儀式などは、それを人間の力では不可変なものと把握すればモノと表現したが、人間の力で努めて果たすべき義務的行為と把握すればコトと表現するようなことも生じた。結果として同じ事実を指し示すように見えるが、それをとらえるとらえ方に、モノとコトの基本的相違が生きていることを見る必要がある。コト(言)は、コト(事)との区別を明確にしたいという表現上の欲求によってコトバ(言葉)・コトノハ(言の葉)という区別の鮮明な形が作り出されて、しだいにコトだけならば行為を表すことがおおくなっていった。


もの【物・者】

 モノといえば、現在では「物体」という意味をどの辞書も最初に挙げている。しかし、古い時代の基本的意味は「変えることができない、不可変のこと」であった。「自分の力で変えることが できないこと」とは、①運命、既成の事実、四季の移り変わり、②世間の慣習、世間の決まり、③儀式、④存在する物体である。
 このほかに、怨霊のモノやモノノケ(物怪)のモノがあるが、これは由来の異なる別語である。
 ①の「運命」という意味はモノオモヒ(物思ひ)という語によく表れている。オモフ(思ふ)とは、恋慕にせよ、悔恨にせよ、胸の中にじっとたくわえつづけていることである。モノオモヒは一見オモヒと同じであるが実は違う。例えば『源氏物語』で、夫を亡くした落葉宮邸を「ものおもふ宿」とする。夫を亡くして自分はどうなってしまうのかと運命のなりゆきを胸の中で反芻する人の住む邸である。
 男女相逢えば、いかに愛していても、生別にせよ死別にせよ、別れることは必定で、いかんともなしがたい運命にある。それをモノ(運命)ノアハレという。いかに花美しく、紅葉色濃くとも、四季の移り行くのは避けがたい運命の悲しさである。これもモノノアハレである。モノアハレ、モノガナシ、モノサビシなどのモノは「なんとなく」と訳されているが、それは誤りである。例えば『源氏物語』若菜上巻で、光源氏が女三宮を迎えて世の習慣のとおり三日間夜離れなく通う。紫上は経験にないこの事態に「忍ぶれどなほものあはれなり」と思う。「なんとなくさびしい」のではなく、こうした自分の動かしがたい運命が悲しいのである。葵巻の「時雨うちしてものあはれなる暮つ方」とは四季の変化のどうしようもない寂しさに包まれる夕方である。モノの意はこのように「自分にはなんとも仕方のない」なりゆきを表している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「近代日本の歴史と社会」前期中間試験問題 ― 神道非宗教論とは何か

2021-12-19 06:04:52 | 講義の余白から

 先週金曜日に、翌週の月曜、つまり明日には中間試験の成績を発表すると学生たちに約束したので、昨日今日と、ジョギング以外は家に籠もって採点に取り組んだ。今日は日曜日だというのに、午前2時に起き出して、採点を続けた。5時過ぎに採点終了。
 なんの準備もせずにテキトーに書いたであろう答案、授業での説明をよく理解できておらず、混乱した記述になっている答案などが残念ながらあり、24名の受験者中8名を不合格にした。百点満点に換算すると、最高点は93点、最低点は25点。
 設問は以下の通り。

教部省の国民教化運動は、期せずして仏教とキリスト教、そして神道主義者からもはげしい批判をあびることになった。そして、やがて教部省自体が解体されていくが、しかしそれは、政府が天皇崇拝を推進する「教化」を、あきらめたことを意味しない。むしろ、この後にこそ、その「教化」は巧妙な詭弁を積み重ねて、人民の間に深く浸透することになる。それが、「神道非宗教論」にほかならない。

En vous référant explicitement au texte ci-dessus, répondez à la question suivante :

En quoi consiste essentiellement « la thèse du shintô laïque (神道非宗教論) » ?

Dans votre copie, il vous faut remplir les deux conditions suivantes :

1/ Utiliser obligatoirement les termes suivants : shintô d’État (国家神道), religion instituée ou institutionnalisée (創唱宗教), religion naturelle (自然宗教), liberté de religion, de culte ou de croyance (信教の自由).
2/ Expliciter le contexte historique dans lequel a été forgée « la thèse du shintô laïque ».

 問題の冒頭の文章は、授業で二回かけて読んだ阿満利麿の『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書 1996年)の90頁からの引用である。
 授業では、この本を読む前に、大橋幸泰の『潜伏キリシタン』(講談社学術文庫 2019年)の中で神道非宗教論に言及されている箇所を読んだ。阿満利麿の本の第四章「痩せた宗教観」をかなり丁寧に読んだ後、礫川全次の『日本人は本当に無宗教なのか』(平凡社新書 2019年)第五章「明治政府は宗教をいかに扱ったか」でローレンツ・フォン・シュタインの「神道非宗教論」が明治政府に採用される経緯が叙述されている箇所を補完資料として読んだ。かなり執拗に神道非宗教論について考察したのである。その結果、不合格にした学生たち以外は皆、神道非宗教論の肝心なところと同論が登場した歴史的文脈はよく押さえていた。
 このように神道非宗教論をしっかり押さえておくと、国家神道が明治・大正から太平洋戦争の終わりまで日本人の信仰心にどのような影響を与え、戦後の日本人の宗教観にどのような影を落としているかがよく見えるようになる。それがこの出題の意図であった。その意図を見事に捉えた答案もいくつかあり、嬉しく思った。
 まだ数十枚のレポートの採点が残っている。これらの点数は一枚あたり最終成績の10%を占めるだけであり、よほどいい加減なものでなければ、少なくとも70点はあげる。いわば救済措置である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


学生たちからの予期せぬプレゼント

2021-12-18 19:04:02 | 講義の余白から

 先週金曜日のメディア・リテラシーの二つ目のグループの授業を終えたとき、機材の片付けをしている私のところに出席学生たちのうちの何人かが来て、「先生、ありがとうございました。これ、私たちからです」とリンツのチョコレートのパッケージをくれた。思いもよらぬことだったので少し戸惑ったが、「ありがとう。とても嬉しく思います」と型通りに応えた。私のちょっと大げさな反応に、彼ら、笑っていたけど。
 十二月に入ると、日本ではこれがおそらく年内に最後に会う機会であろうというときに「良いお年を」と互いに言うのと同じように、フランスでは、 « Bonnes fêtes de fin d’année »と言うのが一般的だ。彼らもまさにそう言うので、まだ翌週に一回授業が残っているのに、翌週は来ないつもりで今日くれたのかよと思ったが、そういうことではなく、単純に、今学期の授業ありがとうございました、ということらしい。
 そして昨日、これが本当に年内の最終授業だった。出席者はいつもの顔ぶれ全員だ。授業の終わりに、先週とは別のグループの学生たちが来て、ヴァンドームのチョコレートのパッケージをくれた。「ありがとう。でも、先週もうもらったよ」と言うと、「これは私たちからです」と言う。どういうグループがクラス内にできているのか知らないが、それぞれに相談して決めたことらしい。
 どうしてですかと聞くのも野暮なので、昨日もただ一言礼を言っただけだった。おそらく、自分たちのために無償で一時間授業をしてくれたことへの感謝の徴ということなのだろう。私が自分で勝手に決めたことだから、そんなに気を遣ってくれなくてもよかったのにね。
 でも、もし私の授業がまったくクソつまらなかったらこうはならなかったであろうから、学生たちがこのように気持ちを形にしてくれたことは素直に嬉しかった。この二つのチョコレートのプレゼントは、彼女・彼らたちが受けている他の授業とはかなり毛色が違い、やたらに哲学っぽい私の授業に対する肯定的な評価を意味するのであろうと、このうえなく楽天的に解釈している。
 君たちのおかげで気持ちよく前期の授業を終えることができたよ。ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


メディア・リテラシー中間試験問題 ― プラトンと現代メディア社会

2021-12-17 23:59:59 | 講義の余白から

 昨日話題にした答案採点は10月に行った中間試験の答案のことだった。ずるずると採点を先送りしていた。流石に冬休み前には学生たちに答案を返さなくてはと、ぎりぎり間に合わせた。
 試験問題は、授業で読んだ石田英敬の『大人のためのメディア論講義』(ちくま新書)から取った一節に示された問題提起に即して設問した。以下がその設問である。

メディアは最初、記憶装置だったはずなんだけど、これは発達すればするほど忘却装置になっていく。どんどん情報のサイクルが短くなって、人々は忘れるようになったのではないか。いろいろなメディアを駆使するようになればなるほど、人間は記憶しなくなるのではないか。

En vous référant explicitement au texte ci-dessus dans votre copie, répondez à la question suivante :

Quels sont les rapports entre les médias et la mémoire dans notre société actuelle ?

Dans votre copie, il vous faut bien tenir compte de la différence qu’a établie l’auteur du texte ci-dessus entre mémoire et remémoration.

 上掲の引用文の問題提起に答案の中で明示的に言及しつつ、現代社会におけるメディアと記憶との関係を論ぜよ、という設問である。論述の条件として、上掲の石田書が取り上げているプラトンの『パイドロス』におけるムネーメー(記憶)とヒュポムネーシス(補助記憶)との区別を前提とすることを求めている。この区別については、授業で二回に渡って詳しく説明した。
 百点満点に換算すると、最高点は90点、最低点は35点。曲がりなりにも上記の条件を満たしていれば、論述が稚拙でも50点(最低合格点)はあげた。
 著者の問題提起とその前提を理解していなければ、まともな答案は書けないことは言うまでもないが、著者の意見に賛成するかどうかは別問題である。それへの批判を論理的に展開できている答案は高く評価した。現代メディア社会の構造を理解する手掛かりとして私自身が授業で導入したプラトンの洞窟の比喩をうまく取り入れている答案がいくつかあり、それらは特に私を喜ばせた。
 上掲のような設問をしたのは、現代社会の諸問題を理解するための道具として哲学を使うことを勧めるためではない。ただ、「ほんとうの哲学とは、世界を見ることを学び直すことだ」(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』)ということを、プラトンを読むことを通じて実感してほしかっただけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


二つの異なったコースの学生たちの答案を採点しての感想

2021-12-16 23:59:59 | 講義の余白から

 今日は文字通り朝から晩までずっとメディア・リテラシーの試験答案の採点をしていた。フランス語での小論文。長さとしては、日本語に訳したとすれば1200~1500字くらいになるだろうか。読むのに結構時間がかかった。
 この授業は一時間で、履修コースごとに二グループに分けて行っている。正式に分けるにはそれだけ予算が必要なわけだが、そう簡単には予算がつかないので、私個人の意思で一時間分ただ働きしている。学生たちにも私にもそのほうが学習条件として好ましいから少しも苦痛ではない。
 一グループは、日本学科の学生たち二十三名である。学生間の学力に大きな開きがある。それが論文の出来にそのまま反映している。見事な文章で設問に対して的確な答えを書ける学生がいる一方、漠然としていてありきたりなことを稚拙な文章でしか書けない学生もいる。
 もう一つのグループは、英語・日本語併修コースの学生たち二十二名。彼らは日本語力では日本学科の学生たちに明らかに劣るが、概して知的レベルが高く、文章力もある。このコースは、二つの言語と経済・商法・国際関係など実践的な科目を同時に学ぶ学科に属している。この学科は書類選考があるので、バカロレアに合格しても入学でるとはかぎらない。人気の高い学科で、選考で篩い落とされる学生の方が多い。
 このコースには、一年から三年まで、フランス語のライティング実習の授業がずっとある。この授業で学生たちはとても厳しい訓練を受ける。だから三年生まで上がって来られた学生たちは相当に文章力が鍛えられている。それが如実に答案に反映されている。
 再来年度から実施される予定の次期カリキュラムでは、日本学科でもフランス語の授業を導入すべきだと私はかねてより思っているが、総授業時間数には制限があるから、多分無理だろう。しかし、日本語をしっかり身につけるためにもフランス語で書く力(すなわち思考力)を鍛えることは必要だと確信している。

 

 

 

 

 

 

 

 


ミッション・ハンディキャップ

2021-12-15 23:59:59 | 雑感

 今年度から、学科のハンディキャップがある学生たちの世話係を担当することになった。世話係といっても、普段の授業はそれぞれの科目の担当教員が授業の中でそれらの学生に必要な対応をしているので、私の役割は、主に試験の際の対応である。別室で試験時間を延長して試験を受けさせたり、手書きを免除してパソコンで解答を書かせたりする。
 ハンディキャップといってもさまざまなタイプ、ケース、程度があって、簡単に一括にはできない。当該の学生は、年度初めか、それ以前に、ミッション・ハンディキャップという大学の機関に面談を申し込み、スタッフと面談後、大学の担当医師と面談し、その医師が、学年を通じてその学生に対してどのような対応をすべきか意見書を書く。各学部・学科では、その意見書に従って具体的な対応を考える。
 この意見書は、医師が教育現場の諸事情を考慮せずに、もっぱら「医学的な」観点から書くから、現場ではそれに沿った対応が必ずしも容易ではない。そもそも、その対応のための専従スタッフが学部・学科にいるわけではなく、教務課の職員と現場の教師が対応しなくてはならない。
 例えば、日本学科で特に問題になるのは、身体障害あるいは心疾患によって手書きが著しく困難な学生の漢字学習である。いっさいの手書き作業や課題を免除してしまって、果たして漢字学習が可能だろうか。他の学生たちには手書きが必須の試験で、ハンディキャップの学生には別に問題を用意し、しかもパソコンで解答させるとなると、公平性を書くのではないかという問題もある。
 担当教師にとっては、それでなくても過剰な学生数なのに、そこにさらに特別な対応を強いられるのだから、負担も大きい。にもかかわらず、実際の対応は現場に丸投げ状態で、特別な予算がつくわけでも、設備投資が行われるわけでもない。当然、現場には不満の声が上がる。
 ハンディキャップのある学生たちを受け入れることに誰も反対はしていない。総論としては、ほとんどすべての教員が賛成なのだ。しかし、大学として受け入れを積極的に推進したいのなら、当局がそれなりの体制を全学的に立ち上げ、それに見合った予算を組み、十分な数の専従スタッフを確保し、現場の実情に見合った設備投資を行うべきだろう。
 それを十分にしないでおいて、宣伝ばかりが先行している結果、今年度に入ってからハンディキャップ申請数が急速に増加し、受理件数もそれに応じて増え、現場での対応の負担は過重なものになりつつある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ごく小さな「投資」がもたらす小さくはない変化を日常生活の中で観察し、それを楽しむ

2021-12-14 23:59:59 | 雑感

 何かにマニアックにこだわるということは自分ではないと思っているが、傍から見るとどうであろうか。
 それはともかく、普段なんとなく習慣的に繰り返していることを数値に換算してより客観的に測定し、その数値の変化を追い、その変化に応じて実感がどうかわるか、自己観察してみようという好奇心(と言えばよいのであろうか)は、結構ある方なのかも知れない。
 例えば、このブログでもこの夏以降にかなりの頻度で取り上げたジョギングの効果としての体組成計やスマートウォッチの数値の推移は今も毎日追っている。これは自分でできる健康管理ためという「大義名分」があるから、好奇心というのとはちょっと違うが、数値が予想に反した変化を示すとき、なぜだろうと考えるのは、たとえそれが素人の下手な考えだとしても、ちょっと面白く、楽しく感じている。
 今年の前半、料理のために、数種の計量カップ、温度計、デジタルクッキングスケールを購入した。それまではすべて目分量で適当にやっていたが、それらをすべてちゃんと計測することにした。この習慣は、素材を無駄遣いせず、一定の味を安定的に得るために明らかに効果があり、さらには微妙に量や温度を変えることで味や食感に変化が出ることもよくわかった。
 先日、抹茶の話をした。浄水器を通した水道水を使っていたが、今ひとつ味がまろやかにならず、苦味がまさっていた。四種の抹茶で試したが、結果は大同小異であった。これはそもそも水道水が硬水であるためだろう。そこで、フランスで販売されているミネラルウォーターの中では数少ない軟水であるヴォルヴィックを試してみた。一口飲んで、明らかに違うことがわかった。格段にまろやかになり、泡立ちもよく、よりクリーミーな喉越しになった。
 これらすべてのごく小さな「投資」が日常生活に与えてくれる小さくはない変化を面白がっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


知と知性の網状組織構築のために一つの問題を持続的に考える

2021-12-13 23:59:59 | 講義の余白から

 このブログですでに何度も言及していることだが、私が担当する科目では、試験問題は事前に公表する。少なくとも一週間前、長いときは四週間前に公表する。さらに、各科目の公式ページにアップして、いつでも確認できるようにしてある。
 これは、しかし、学生たちに楽をさせるためではない。むしろ逆である。試験は、大問一つの小論文形式で、授業で取り上げた諸テーマを横断するような設問になっている。授業をちゃんと聴いていなければ、まずまともには答えられない。授業で使った参考資料や言及した参考文献を読んでも、そこに答えが書いてあるわけではない。しかも、授業で私が話したことをただ要領よくまとめればいいのではなく、その問題について自分の頭で考え、議論を構築できないと、いい点は取れない。つまり、よほど時間をかけて準備しないとまともな答案は書けないような設問になっている。
 結果として、成績全体を見てみると、他の科目の成績との間に著しい違いは出ない。つまり、優秀で日頃からコンスタントに勉強している学生がよい成績を収め、普段授業をよく聴いておらず、また自分の頭で考えようともしない学生はおのずと低い点数しか取れない(意外な結果がほとんどないのはちょっとつまらないほどである)。
 なぜ予め問題を公表するかというと、解答の準備に相当な時間がかかるという上に述べた理由はむしろ副次的で、主たる理由は別にある。
 試験当日までずっと考え続けるかどうかは別として、問題公表以後、少なくとも学生たちの頭の片隅には問題が記憶されているはずである。試験準備を本格的に始めるのは試験直前になってからだとしても、問題公表後ずっとちょっとは気になっているはずである。そうなると、試験問題に関連する情報におのずと気づきやすい状態に脳がセットされる(全員がそうだとは言わない)。必ずしも私の授業とは関係のない話の中にもそのような情報は潜んでいるかも知れない。それらの情報をキャッチしやすい状態になっているはずなのである。
 もちろん、現実はそんなに単純ではないし、ただ情報が蓄積されればそれでよいというものでもない。こちらの狙い(あるいは願い、いや、祈願)は、一つの問題をめぐって収集あるいは集積された情報を整理、組織化しつつ、その問題に対する解答を持続的に考えることを通じて、知と知性の網状組織(ネットワーク)が学生それぞれと彼・彼女たちがその中で生きている情報社会との間に形成されることである。
 目の前の試験という短期的な目的のために断片的な知識を頭に詰め込んでそれらを試験のときに吐き出して終わり、という不毛な勉強はやめてほしい。それで結果としていい成績を取ったからといって満足しないでほしい。
 意識的な試験勉強と半意識的な試験準備態勢(というか、試験問題が気になっているという心理状態)とほぼ無意識的な知の指向性(試験問題に関する情報への感度が高まっている脳の状態)を通じて、試験後も随時補給される「栄養」によって増殖する、分野横断的な汎用性を備えた知と知性の網状組織を形成することで、この困難な時代を生き延びていってほしい。
 このように願いつつ問題を考案している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


先のことはわからない」という日常感覚

2021-12-12 23:59:59 | 雑感

 先週半ば、来夏の集中講義の希望時間割に関する問い合わせメールが東洋大学大学院教務課から届いた。2011年から2019年まで9年間連続で哲学科修士課程の「現代哲学特殊演習②」という科目を担当し、2020年も担当する予定でシラバスも作成し、日程も決まっていたが、コロナ禍で休講となった。今年の夏はストラスブールから遠隔で行った。そのときのことはこのブログでも記事にした。
 届いたメールには、「来年度は原則としてすべて対面で行う予定ですので、その前提で希望時間割を提出してください」とあった。コロナ禍以前は、ただ「希望時間割を提出してください」という一言でよかったし、メールを受け取った方もそれに何の疑問を抱くこともなかった。実際、授業は予定通りキャンパスで行われた。それが「当たり前」であった。
 しかし、来年度、果たして本当にすべての授業が対面で行われるのか、来夏、感染状況はどうなっているのか、今の時点では確かなことは言えない。「先のことはわからない。」昨年のコロナ禍発生以来、これはもはや単なる常套句ではなく、日常的な、ほとんど恒常的な実感である。
 シラバスは近々準備する。来年9月にパリで4日間に渡って開催されるかなり大規模な翻訳学国際シンポジウムに参加することが決まっているので、そのときの発表テーマとリンクした演習内容にするつもりだ。
 「先のことはわからない」という日常感覚の中でこそ、研ぎ澄まされた形で確かに見えてくるものがある。そこに思考を集中させたい。