ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(里見元一郎訳 講談社学術文庫 2018年 原本 河出書房新社 1971年)の第一章「文化現象としての遊びの性格と意味」の「遊びの中の聖なる真面目さ」と題された節(節の見出しは原書にはなく、訳者による)にプラトンの『法律』(第七巻八〇三)からの引用がある。同じ箇所が最終章である第十二章「現代文化のもつ遊びの要素」の最終節「遊びの要素の不可欠性について」にも再び引用されている。『ホモ・ルーデンス』のいわばキー・ノートである。
人は真面目なことには真面目をもってしなければならないが、そうでないことにはそうしなくてよい。あらゆる自然の中で真面目に値するのは聖なる神だ。しかし、人間は神の玩具として作られている。そうなることが彼にとって本質的に最善のことなのだ。かくして、彼はその本性に従って、最も美しい遊びを遊びながら、今の生き方とは逆に、人生を生き抜いてゆかねばならない。
手元にあるプラトンの研究書及び注釈書にざっと当たってみたが、『法律』のこの箇所に触れているものはなかった。ホイジンガはこの箇所についてこう注している。
人間精神は至高の存在に眼を向ける時にのみ、それによって遊びの魔術的支配圏から解放される。物事を論理的に考え抜くだけでは、とうていそこにまで達しえない。人間的思考が精神のあらゆる価値を見渡し、自らの能力の輝かしさをためしてみると、必ずや常に、真面目な判断の底になお問題が残されているのを見いだす。どんなに決定的判断を述べても、自分の意識の底では完全に結論づけられはしないことがわかっている。この判断の揺らぎだす限界点において、絶対的真面目さの信念は敗れ去る。古くからの「すべては空なり」に代わって、おそらく少し積極的な響きをもつ「すべては遊びなり」がのし上がろうと構えている。これは安っぽい比喩で、ただ精神の無力を思わせるかのようだ。しかし、これこそプラトンが人間は神の玩具であると名づけた時に達しえた知恵なのだ。