私が担当している学部三年生対象の三つの授業のうち、 « Civilisation et culture japonaise »(日本の文明と文化)という何とも漠然としたタイトルの二時間の授業はすべて日本語で行う。試験問題も日本語、学生も答案は日本語で書かなくてはならない。10月の中間試験のときのことについては10月18日の記事で話題にした。
この中間試験の問題は以下の通り。
映画『君の名は。』に見られるムスビの思想を説明してください。
その説明の中に「かたわれ時」と「たそがれ時」という言葉を必ず入れてください。
『君の名は。』の中で一葉が三葉と四葉にムスビの思想を説明するシーンを授業で見せた。「かたわれ時」という辞書には載っていない言葉が映画で使われている三つのシーンも見せた。そして、両者の関係について授業で一時間かけて説明した。だから、私の日本語での説明を理解できていた学生たちには、どちらかと言えば与し易い問題であった。
期末試験問題は、それに比べると、より高度な思考力と日本語での表現能力が求められる。じっくりと考える時間を学生たちに与えるために、試験四週間前である先週月曜日にその問題を告知した。授業で説明した「もの」と「こと」の区別を前提にする問題なのであるが、その区別は『古典語基礎語辞典』(角川学芸出版 2011年)に依拠している。この辞典の「こと」と「もの」の項の解説のほぼ全文を資料として与えた上で、以下のような問題を与えた。
上の文章による「こと」と「もの」の定義を前提として、「こと」と「もの」の区別に基づいた世界観を説明してください。
漠然とした問い方にしてあるのは意図的である。与えられた資料をどこまで読み込み、そこから世界観を引き出せるかどうかを問うためである。資料を読まずに、別の辞書のもっと簡単な定義に依拠したことが明らかな答案には、たとえ整合的な議論が展開できていても、合格点はあげない。
資料として与えた辞書の解説は以下の通りである。
こと【言・事】
コトはモノ(物・者)と対比すると特性が明らかになる。モノは人間にとって、変えることのできないきまり、また、変えることのできない存在をいう(もう一つ、別に怨霊の意のモノがある)。それに対し、人間の力で果たすことのできる義務、意欲的に可能な行為をコトという。行為は二つに分けられる。その一つは音声による、またその延長としての文字による行為。これをコト(言)とする。その二つは音声以外の、手、足、全身の力によってする行為。これをコト(事)とする。コト(言)もコト(事)も人間どうしの間でかわされる社会的な行為であるが、共にコト一つで表現されるから、奈良・平安時代の例では「言」であるか「事」であるか明確に区別できないものが少なくない。
コトは本来人間の社会的もしくは義務的行為であるから、「言」のほうでは、約束・命令・報告・便り・挨拶の意を含む。「事」のほうでは、義務的な仕事・任務・政務、また行事・儀式の意が基本である。そこから「言」は、言語・伝承・詩歌、またその結果生じる噂・取り沙汰へと広がった。「事」のほうは、目的ある仕事、またその結果生じる出来事・事件・事変・事態・事実、さらにはその事情・理由、時間的に変更可能なことを広く指すに至った。
また、行事・儀式などは、それを人間の力では不可変なものと把握すればモノと表現したが、人間の力で努めて果たすべき義務的行為と把握すればコトと表現するようなことも生じた。結果として同じ事実を指し示すように見えるが、それをとらえるとらえ方に、モノとコトの基本的相違が生きていることを見る必要がある。コト(言)は、コト(事)との区別を明確にしたいという表現上の欲求によってコトバ(言葉)・コトノハ(言の葉)という区別の鮮明な形が作り出されて、しだいにコトだけならば行為を表すことがおおくなっていった。
もの【物・者】
モノといえば、現在では「物体」という意味をどの辞書も最初に挙げている。しかし、古い時代の基本的意味は「変えることができない、不可変のこと」であった。「自分の力で変えることが できないこと」とは、①運命、既成の事実、四季の移り変わり、②世間の慣習、世間の決まり、③儀式、④存在する物体である。
このほかに、怨霊のモノやモノノケ(物怪)のモノがあるが、これは由来の異なる別語である。
①の「運命」という意味はモノオモヒ(物思ひ)という語によく表れている。オモフ(思ふ)とは、恋慕にせよ、悔恨にせよ、胸の中にじっとたくわえつづけていることである。モノオモヒは一見オモヒと同じであるが実は違う。例えば『源氏物語』で、夫を亡くした落葉宮邸を「ものおもふ宿」とする。夫を亡くして自分はどうなってしまうのかと運命のなりゆきを胸の中で反芻する人の住む邸である。
男女相逢えば、いかに愛していても、生別にせよ死別にせよ、別れることは必定で、いかんともなしがたい運命にある。それをモノ(運命)ノアハレという。いかに花美しく、紅葉色濃くとも、四季の移り行くのは避けがたい運命の悲しさである。これもモノノアハレである。モノアハレ、モノガナシ、モノサビシなどのモノは「なんとなく」と訳されているが、それは誤りである。例えば『源氏物語』若菜上巻で、光源氏が女三宮を迎えて世の習慣のとおり三日間夜離れなく通う。紫上は経験にないこの事態に「忍ぶれどなほものあはれなり」と思う。「なんとなくさびしい」のではなく、こうした自分の動かしがたい運命が悲しいのである。葵巻の「時雨うちしてものあはれなる暮つ方」とは四季の変化のどうしようもない寂しさに包まれる夕方である。モノの意はこのように「自分にはなんとも仕方のない」なりゆきを表している。
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