内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自他の言葉に耳を澄ます時間を持てなくなった現代人 ― カール・クラウスの言語論を読み直すべき時

2020-07-21 23:59:59 | 読游摘録

 ちょうど一年前のこの日の記事で取り上げた古田徹也『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ 2018年)の第三章「かたち成すものとしての言葉――カール・クラウスの言語論が示すもの」を読み直していて、著者がクラウスの時代と現代とを比較して、言葉のあり方について次のように述べているところに、今年前半のコロナウイルス禍を経て、あらためて強く共感した。

 現在のマス・メディアが、クラウスが直接対峙していたものと同様の影響力をもっていないという見方は、多分に疑わしい。だが、たとえ仮にその見方を受け入れたとしても、状況はむしろさらに悪くなりつつあると言えるのではないか。自分の主張として他者の言葉をそのまま反復することは、まさにソーシャル・メディア・サービスの恩恵を受ける現在の方が遥かに簡単である。実際、いま急速に拡大しているのは、他者の言葉に対する何の留保もない相乗りと反復に過ぎないのではないか。秒単位のタイムスタンプが押された言説がリアルタイムで無数に流れる状況にあっては、言葉を発する方も受ける方も、自他の言葉に耳を澄ますどころか、時間に追い立てられ、タイミングよく言葉を流す即応性に支配されているのではないか。「リツイート」や「シェア」等の反射的な引用・拡散や、「いいね」等の間髪を入れない肯定的反応の累積がもたらすのは、それによって単に重量を増した言葉が他の言葉を押しのけるという力学であり、かつてない速度と規模をもつデマや煽動の生産システムではないのか。あるいは、そうした引用・拡散や肯定的反応を誘うような言葉を発するという、絶え間ない常套句の生産システムではないのか。称賛も非難も、議論や煽り合いも、結局のところ常套句(あるいは、それよりさらに寿命が短く適用範囲が狭い流行語)の使用への硬直化し、その反復や応酬の勢いと熱量が、物事の真偽や価値の代用品となってしまっているのではないか。そうして、我々が向かおうとしているのは、重量と勢いと熱量のある声への――その声を代表する誰かへの――「迷い」なき同調と一体化の空間なのではないか。つまり、我々は結局、誰かに対して、マス・メディアを介することすらなく、じかに身を任せるようになりつつあるだけではないか。否、むしろ我々は、誰かですらないような、空気や雰囲気や流れといった曖昧な何かに、じかに溶け込みつつあるだけではないのか。

 著者は、「これらすべての問いにすべてイエスで答えることは、あまりにもシニカルで悲観的に過ぎる」と認めているし、情報技術の革命的な進歩がもたらした肯定的側面を無視してもいない。「しかし、これらの問いを杞憂と言い切ることもできないはずである」と著者は言う。
 「誰しも自分の話す言葉に耳を傾け、自分の言葉について思いを凝らし始めなければならない」というカール・クラウスの呼びかけ、より端的に言えば、「言葉を選び取る責任」を各自が引き受けなくてはならないという呼びかけは、現代の我々にも、同じように、あるいはより緊急を要する仕方で、突きつけられているという主張は、フランスの哲学者ジャック・ブーヴレスによっても繰り返されている(Jacques Bouveresse, Satire & prophétie : les voix de Karl Kraus, Agone, 2007. 本書の第三章は、合田正人氏の邦訳がある:「「常套句があるところに深淵を見ることを学ぶこと」――犠牲と国民教育」『思想』第一〇五八号、岩波書店、二〇一二年)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


古今に冠絶する語りの戦略家としてのカエサル ― 『ガリア戦記』新仏訳を読みながら

2020-07-20 23:59:59 | 読游摘録

 最初に一言、これはもう私自身以外にはまったくどうでもよいことなのですが、昨日の記事について訂正しておきたいことがあります。
 フランスに来て最初に買った本の一冊として、Grammaire méthodique du français の初版を挙げて、もう手放してしまったと書きました。でも今日になって、思い出の一冊だからそう簡単に売り払ったりしなかったはずだがと、もう一度本棚の隅々まで探したら、出てきたのです。二列に並べられた後列の隅の方にひっそりと隠れていました。初版というのは、正確ではなく、1996年の改定第二版(2e édition corrigée)でした。こっちが一方的に無沙汰を重ねてしまった旧知に、二十年ぶりに再会したかのような感慨を覚えました。ちょっと黴臭い頁をめくっていると、1996年秋、ストラスブールに来て間もない頃の覚束なさが蘇ってきました。長年の無沙汰の詫びとして、今は立ち上がればすぐに届く位置に置いてあります。
 さて、文法書と交互に読んでいるのが、今年はじめに Les Belles Lettres 社から刊行された『ガリア戦記・内乱記』の新仏訳 Guerres. Guerre des Gaules. Guerre civile です。この新訳は、古典ラテン文学研究者と古代ローマ史を専門とする歴史学者たちの数年間に渡る緊密な共同作業の結果として生まれた輝かしい成果です。彼らは、ラテン語原文と当時の歴史的現実にあたうかぎり忠実であろうとしながら、現代フランス語によってカエサルの名文の息吹を伝えようとする、きわめて難度の高い挑戦に挑み、それに見事に成功しています。
 共訳者たちによる『ガリア戦記』の序論に « Comment lire la Guerre des Gaules ? » と小見出しが付けられた節があり、カエサルの「語りの戦略」(stratégies narratives)がいかなるものであったかがそこに簡潔明瞭に示されています。そこが私にとってとても示唆的でした。
 文体、叙述の仕方、出来事の配列、そして意図的な言い落しは、決して単なる戦況報告を目的とした informative なものではありません。繰り返される危機的状況の臨場感・緊迫感溢れる描写とそこでの百人隊長たちの活躍の描写とは、彼らを見事に統率したカエサルとの軍団との良好な関係を説得的に示すために意図的に選択されており、その意図にもっとも相応しいとカエサルが考えた文体が採用されています。つまり、元老院の保守派たちに対して「説得的」であるための「語りの戦略」が文体を決定しているのです。
 カエサルを卓越した文章家にしているのは、この周到な「語りの戦略」です。カエサルは軍人・将軍・執政官として史上屈指の天才であっただけでなく、古今に冠絶する語りの戦略家でもあったのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


心が落ち着かないときに読む薬としての文法書

2020-07-19 20:10:09 | 読游摘録

 世間の空気には、コロナウイルスの感染状況が国全体としては小康状態を保っていることもあり、夏休み気分が広がりつつあります。私自身はまだ仕事の上の心配事から解放されておらず、しかも現時点では積極的に行動することでそれらに解決をもたらすことができず、ただ待たなければならない状態があと数日は続くので、夏休み気分に浸ることはできないでいます。こういうときは、何か一つのことに気持ちを集中させるのが難しいですね。
 読書も上の空になりがちで、長時間読み続けられません。それでも、一日に何か少しでも読まないと気がすまないというのは、もう病気と言ってもいいのかもしれませんね。こんな状態に陥ったことはもちろん過去にもありました。そんなときには、できるだけ感情が動かされることのない文章を読むようにしています。
 といってもいろいろあるわけですが、今読んでいるのは、Grammaire méthodique du français (PUF, 7e édition mise à jour 2018) というフランス語の文法書です。初版は1994年で、1996年にフランスに来てすぐ買った本の一つでした。もうその初版は手放してしまいましたが、中身はまったく同じ Quadrige 版(3e édition 2004, 5e tirage : 2008)は手元にあります。今読んでいるのは、その最新の増補改定版です。
 その増補改訂の仕方が凄まじくて、頁数だけをとってみても、646頁から1109頁に増えており、章立ても修訂され、より細かくなっています。同じ書名のままで、全体の記述の基本方針は変わっていませんが、初版刊行後20年の研究成果が存分に盛り込まれています。
 それでも、旧版の利用者が今なお多数いることに鑑みて、旧版と新版との章立ての対応表が21頁に渡る目次の後に付されています。これは、旧版と対応している Questions de syntaxe française (PUF, 1999) の利用者が新版と組み合わせて使うための配慮でもあります。
 適当に頁を開いて、言語の様態の微細な差異についてのあたうかぎり厳密であり且つ実用的であろうとしているその記述を読んでいると、次第に心が落ち着いてきます。普段何気なく使っている表現の機能について、まるで顕微鏡を覗いて観察しているような姿勢で貫かれた記述を注意深く追っていくうちに、心のざわめきが静まっていきます。
 ここ数日間、煉瓦のように分厚い本書を文字通り座右に置き、あたかも常備薬を服用するかのように、一日数頁ずつ読んでいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


一年前の今日の「京アニ放火事件」で亡くなられた方々・ご遺族・深い傷を負われた方たちのことを想いながら

2020-07-18 01:21:05 | 雑感

 今日の記事は、カテゴリー上は「雑感」となっていますが、内容からするとふさわしくありません。万葉集の三大部立「雑歌」「相聞」「挽歌」に敢えて倣っていえば、「挽歌」に相当する内容です。
 記事のタイトルからおわかりのように、昨年のこの日に起こった「京アニ放火事件」のことが今日の記事の話題です。
 昨年のこの日、ネットのニュースで、炎上する京アニ第1スタジオの映像を見て、呆然と佇ちつくしました。
 その後、犯人がどのような人物であるかが徐々にわかるにつれて、亡くなられた方々のことがなおのこと痛ましく、なんでこんな馬鹿げた事件が起こってしまったのかと、犠牲者の方々とそご遺族の方々と深い傷を負われた方々のことを思うと、今でも涙が止まりません。
 多額の税金をつぎ込んだ最先端医療のおかげで一命をとりとめ、今その動機を語りうるまでに回復した犯人の供述についての記事を読むたびに、たった一人の人間の歪んだ感情がこんなにも多大な犠牲を生んでしまったことに慄きを感じざるを得ません。
 京都アニメーションが生み出す素晴らしい作品だけでなく、時間をかけて人を育てていくその卓越したビジネスモデルを私は心から称賛していました。
 昨年九月、新学期開始直後、私が担当する日本語だけで行なう授業で、追悼の想いを込めて、二回に分けて『聲の形』を学生たちに鑑賞させながら、この作品がどのような経緯を経てアニメーション映画として作成されたかを説明し、作品の内容そのものについて彼らに考えさせると同時に、一つの優れた作品が実現されるには、どれだけたくさんの人たちが妥協せずに協力することが必要だったかを強調しました。
 今日は、追悼として、『聲の形』を観ます。少なくとも、すでに十数回は観ている作品ですが、私にとって、これは不朽の名作です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


気晴らしとしての掃除と整理整頓

2020-07-17 21:48:31 | 雑感

 今日もまた、他愛もない話でございます。
 自分で言うのもなんでございますが、私はかなりきれい好きな方で、部屋の整理整頓をするのが趣味みたいになっています。というか、散らかっていると落ち着かないんですね。それで、しょっちゅう片付けています。
 毎日、机上の三台の PC と iPad と iPhone とがすべて同時に視界に入るように設置して仕事をしているのですが、その同じ机上と背面の机の上に研究のための書物も積み重なっていきます。それでも、一日の終わりには、たとえ仕事はまだ完了しておらず、明日以降に持ち越す場合でも、それらすべてを元の位置に戻します。
 この原則は台所でも洗面所でも同じで、一日の終りには、すべてを元の位置に戻し、しかも洗面所はすべての備品を洗面台下の開き戸の中に仕舞いますので、洗面台の上、大鏡の前には何一つものがなくなります。
 こうしないと落ち着かないというのは面倒な話ですが、この習慣のおかげで、物の置き場所がわからなくて探すということはまずありません。
 ただ、外出制限令の間に、本棚の中身をかなり入れ替えたので、以来、しばらく手に取ることがなかった本を探すのに少し時間がかかるようになってしまったのは情けない話です。これは明らかに老化現象です。以前は、数年間触れたこともなかった本でも、その置き場所を覚えていて、すぐに見つけることができました。
 きれい好きということは、汚いままに放置できないということでもあります。例えば、つい数日前にあったことですが、普段使っていないワイングラスを取ろうとして、そのグラスが置いてある棚を見るとホコリで汚れているではありませんか。こうなると、当のワイングラスのことは忘れて、その棚にあったすべてのグラスや食器を全部どけて、その棚を磨き上げなければ気がすまないのです。自分でも、面倒くさい奴だなあ、こんな事している場合かよ、と思うのですが、きれいに拭き上げられた棚を見て、しばし満足感に浸ることで気持ちは相殺されます。
 このような日常生活の小事に気持ちを集中させることが息抜きや気晴らしになっているのは、随分安上がりで、しかも実益もありますから、喜ぶべきことなのかも知れませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ブログのランキングについて

2020-07-16 17:13:10 | 雑感

 昨日、ちょっと嬉しいことがありました。ほんとに些細なことで、だからなんなのというような話です。
 拙ブログを始めて丸七年と一月半ほど経ちますが、毎日休まずに投稿している割には、PV(閲覧数)が一日平均1600前後、UU(訪問数)が700を少し越えるか下回る程度で、それ以上に目立って増えることはずっとありませんでした(たまにPVが3000とか4000とか、ありえない数値のことがありますが、これは何か操作上の問題なのでしょうか)。代わり映えのしない内容だし、やたらに難しいことが書いてあることも多いから、この程度で横ばいなのも仕方のないことなのかもしれません。
 ただ、他人様のブログを時々拝見させていただいて、けっこう軽いというか、浅いというか、こう申し上げては失礼ではありますが、どう考えても中身の乏しい記事なのに、やたらにPVとUUの数値が高いことがあって、どうしてなのか、ちょっと釈然としないままです。毎日読む記事としては、軽くさっと読めて、ちょっと気が利いている内容・文体がいいということでしょうか。
 もう一つよくわからないは、ランキングです。拙ブログは、PVやUUが平均値より多少増えても、ランキングは、GOOブログ総数296万3千数百中、1200番台から1400番台を行ったり来たりで、それより上に行くことはありませんでした。ところが、一昨日14日に1001位に上昇し(PV:1774;UU:792)、昨日、ついに961位と初めて三桁台にまで上昇しました(PV:1665;UU:739)。
 たまたまのことなのだと思います。それでも、ずっと破れなかった1000番の壁を破れたのはちょっと嬉しい。
 強いて理由を探せば、気を引きやすいタイトルだったということでしょうかね。過去にも、目立ってアクセス数が増えたときは、タイトルがタイムリーであるとか、話題性の高いものとかでした。つまり、一般に受けやすいお題だったということです。
 数値や順位それ自体を目標にする気にはとてもなれないので、これからも代わり映えのしない記事を飽きもせずに書き続けてまいりますが、ご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


学科長のことは嫌いでも、日本学科のことは嫌いにならないでください

2020-07-15 00:00:00 | 雑感

 今日の記事は二千字を越える長文です。最後まで読んでいただければ、この上なく幸いに存じます。
 昨日の記事で話題にしたような自主的留年を可能にする理由の一つは、フランスの大学には日本の大学のような高額な授業料がなく、年間2万円足らずの登録料を払うだけで学生登録ができることです。日本の大学の場合、たとえ当該の女子学生と同様な理由で留年したいと考える学生がいたとしても、経済的負担を考えれば諦めざるをえないでしょう。
 もちろん、フランスでも、卒業が一年遅れれば、その一年間の生活費その他の経済的負担は本人あるいはその親あるいは経済的援助者にかかってくるわけですから、周りに反対されるということは大いにありえます。他方、ろくに勉強もせず、無益に留年を繰り返す、救いがたい学生がいることも事実です。これも、授業料が高額であればありえない話でしょう。
 それにしても、進級できるのに自ら進んで留年するというのはきわめて稀なケースです。しかし、彼女の決断は、ほぼ間違いなく、正しいと私たち教員は考えています。もう一度二年次の科目をしっかりやり直せば、三年次での成功率も確実に高まり、最終的によりしっかりとした日本語能力が身につくはずだからです。
 将来の飛躍のために、一旦後退して助走距離を長く取ろうという彼女の判断は賢明であり、あとは、その判断に見合った持続的な努力が彼女にできるかどうかに事の成否はかかっています。
 入学時に150人ほどいる一年生中、学部正規の三年間で卒業できるのは、わずか10%ほどで、残りは、留年するか(しかも一回とは限らない)、他学部に転籍するか、いなくなってしまうほど、日本学科で学士号を三年間で取得することは難しいのです。
 日本の大学ではありえないこのような低数値(本学でも他学科はここまで低くありません)になる理由の一つは、入学時に選抜がなく、高校までの成績とバカロレアの結果からして、挫折間違いなしの低学力の学生が多数入ってきてしまうことです。
 それゆえ、二年前の新入学制度導入に際して、日本学科は、言語学部で唯一、そういう低学力の学生たちに一年次の科目を二年かけて履修させるシステムを採用しました(このシステムの成果が現れるには、まだ数年かかるでしょう)。
 もう一つの理由は、より深刻なのですが、将来の職業について何の考えもなく、実に安易に日本学科を選ぶ学生たちが多いことです。現実には、主専攻として日本学科を選ぶのに充分に現実的で堅固な動機を持ち、そこで成功するための持続的な意志を三年間保てる学生は、全体の一割とまでは言わないにしても、せいぜい二割程度しかいません。
 それにもかかわらず、本学で教えられている25の外国語のうち、日本語の履修者数は英語についで第二位なのです。しかし、私はこれを好ましいことだとも、喜ばしいことだとも思っていません。労働市場における需要に対して、まったくバランスを欠いているからです。しかも、その需要に応えうるだけの能力を身につけるには、学部三年間では不十分なのです。
 選択科目として、あるいは、第二のディプロムとして、日本語・日本文化を学ぶというのならいいのです。その場合は、その語学力と知識がセールスポイントになりうる場合もあるでしょう。しかし、日本学科を卒業しただけでは、すぐに安定した職につける可能性は、きわめて乏しいのが現実です。日本語能力を活かせる職場・職業に話を限定すれば、学部だけで職が見つかる可能性はほぼゼロと言わざるを得ません。
 つまり、大変酷な言い方をすれば、日本学科を選択した学生たちの多くは、ほんとうは日本学科に来るべきではなかったのです。仮に日本学科を卒業すれば就職に有利になるのだったとすれば、多くの学生が自分の適性も考えずに来たがるのもわかります。しかし、現実はまるでその反対であることは上に説明した通りです。これは隠れもない事実です。つまり、彼らの多くは、短慮で誤った選択をしてしまっているのです。
 誤解のないように付け加えておきますが、そういう学生たちのことが憎らしくて、こんなことを言っているのではありません。まったく逆です。これからの社会を背負っていく学生たちの将来を考えて言っているのです。もっと賢明な選択があったのではないかと彼らに言いたいのです。
 日本学科でそれなりに勉強して、まあまあの成績で卒業はしたものの、将来に明確なヴィジョンもなく、安定した職にもつけない。いったいなんで自分は日本学科を選んでしまったのだろうと、卒業してから後悔してほしくないのです。だから、こんな憎まれ口を利いているのです。
 現実の時間を刻む時計の針は、残念ながら、逆に戻すことはできません。現在学科に在籍し、来年度も登録して頑張ろうとしている学生たちのやる気に冷水を浴びせたいのでももちろんありません。ただ、現実はしっかりと見ないといけません。「そのうちなんとかなるだろう」という楽天主義的時代はもう遠い昔です。今与えられたかなり厳しい条件の中での最善の選択は何か、よく考えなくてはいけません。最善だけが正解だとは言いません。今自分が為すべきことは何か、真剣に考えてほしいだけです。
 そのために、学生たちにひとつだけお願いがあります。学科長のことは嫌いでも、日本学科のことは嫌いにならないでください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


自ら留年することを選んだ学生の賢明で勇気ある決断を讃えて

2020-07-14 05:39:18 | 雑感

 今日はフランス革命記念日です。正式には Fête nationale française と言いますが、一般には、(Le) Quatorze Juillet と日付だけでこの祝日を指すことのほうが圧倒的に多いですね。フランス革命のきっかけとなった民衆によるバスティーユ牢獄襲撃・占拠が起こった1789年7月14日に因んで、フランス共和国の成立を祝う国の祝日としてこの日が法制化されたのが1880年です。
 例年、午前中シャンゼリゼ大通りで大統領謁見下に軍事パレードが華々しく行われ、多くの見物客が集まります。そのパレードの様子はテレビ中継されます。今年はコロナ禍の影響で地上のパレードは中止。セレモニーは行われ、空軍のジェット機による空のパレードは例年の半分の規模で行われるそうです。エッフェル塔とシャイヨー宮との間で行われる夜の盛大な花火の打ち上げは、遠くからのみ鑑賞可能だとのことですが、よく見えるところには人がいっぱい集まってしまうでしょうから、そこでクラスターが発生するかも知れませんね。
 この日の花火は、パリに住んでいるとき、二回、間近まで見に行きました。一度は、打ち上げが始まってから乗ったメトロ六号線が、エッフェル塔が間近に見えるセーヌ川上の鉄橋で一時停止しました。これは運転手の粋なはからいで、混雑した車内はもう大歓声でした(ああ、パリの佳き思い出は遠ざかるばかり……)。
 さて、前置きがやたらに長くなりましたが、今日の記事で書きたかったのは、革命記念日のことではありません(なんだよぉ~)。
 昨日、大学の秘書課から、二年生の一人が三年生に進級できるのに留年したいと言ってきているがどうするか、と問い合わせがありました。当該の女子学生は、前期は落第、後期は合格、通年の総合平均点が 10,092(フランスの学校の成績は20点満点で、10点以上が合格)で、この場合 admission conditionnée と言って、上の学年に上がれるのです。同様なケースは、毎年、学年ごとに、少なくとも数件、多いときは十数件あるのですが、最終結果を知って、学生たちは、「ラッキー!」って思うか、ほっと胸をなでおろすのが普通です。でも、現実には、こういう低空飛行の名人たちは、上の学年で苦労し、結局、その上の学年で留年することが多いのです。
 この学生は、上の学年でやっていけるだけの実力が自分にはまだついていないと判断し、留年を希望してきたのです。このようなケースは、私が学科長になってから初めてのケースであるばかりでなく、同僚たちも記憶になく、秘書課も初めてだと言っていました。
 専任の教師たちにすぐにメールで意見を聞きました。皆、彼女の留年に賛成であるばかりでなく、ある同僚は « C’est lucide et courageux » と褒めてさえいました。私もまったく同感でした。
 秘書課を通じて留年を承認すると一言伝えるだけでは素っ気なさすぎると思い、「教員一同、君の賢明で勇気ある決断に敬意を表する。と同時に、来年度の君の成功を私たちは確信している。夏休み中に来年度に向けてしっかり準備するように。新学期にまた会おう」という主旨のメールを学科の教員を代表して送りました。すぐに、「ご承認ありがとうございます。期待に応えられるよう頑張ります。新学期にまたお目にかかります」という意の返事が来ました(実際のやり取りはフランス語でしたが、日本語にするとこんな感じかな)。彼女には来年度是非良好な成績を収めてほしいと今から願っています。
 明日の記事では、なぜ彼女の判断を教員たちが積極的に評価するのか、その理由をご説明しましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


新しい本棚が届いた!― 死ななきゃ治らない本好き爺の懲りない言い訳

2020-07-13 20:21:59 | 雑感

 今日の記事をお読みくださる方々にあらかじめお断りしておきます。以下の文章で括弧内に記されたやりとりは、老生の心の中の良心(そんなのあったんだぁ)と本心との葛藤であります。
 今日、六月末に注文した本棚が届きました。これで十一…と書こうとして、はて、本棚はどう数えるんだっけ、と困ってしまいました(えぇ~、そんなことも知らないで日本学科長とかやっちゃってるわけぇ? 学生たち可哀想じゃねェ~ ― っせ~んだよ。だからいつでもやめてやるって、言ってんだろ!)。
 ググってみると(学生たちにネット検索を安易に利用するなって言ってるくせにィ~ ― てめェ~、ぶっ殺すぞ!)、今日(コンニチと読みます。キョウではありませんよ、学生諸君)、本棚は「台」で数えていいようです。
 さて、やっと本題に入ることができます。
 今日(ここはキョウと読みます ― オー、ニホンゴ、ムズカシーデス!)、十一台目の本棚が届きました。
 今年前半、本をたくさん買ってしまいまして(って、いつもじゃん)、もう本棚に空きがなくて、三月以降、本の置き場所にちょっと四苦八苦していました。それで六月末に一つ小さな本棚を注文しました。それが今日届いたのです。
 早速組み立てて、仕事机の左脇に据えました。入念に寸法を検討した上で購入したので、サイズはまさに注文して作らせたみたいにピッタリ。
 その本棚に、暖房機(今の時期、使いませんから)の上に並べてあった本たちを移動しました。これで、窮屈な場所に詰め込まれていた本たちは、ゆったりと寛ぐことができるようになり、きっと喜んでいるはずです。私ももちろん喜んでいます。
 これでまた本が買えるぅ~(って、あんた、それ、死ぬまで続けるつもり? ― イエス!)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


愉楽と実益を兼ねた映画・ドラマ鑑賞

2020-07-12 13:59:35 | 雑感

 本人の気分としては、まだまだ夏休みから程遠いのですが、季節はもうほんとうに輝くばかりの初夏の陽光に包まれていて、そんな光を浴びるとき、度し難い捻くれ者の私でも少しは心が浮き立ちます。
 仕事机に座っているとき、眼前の窓外の緑が眩しいほどで、それは仕事をしていても嫌でも目に入ります。窓を半開きにしておけば、鳥たちの歌声が朝から夕刻まで、耳に優しく響いています。
 今、ちょっと「待ちの姿勢」を取らざるを得ず、その分、少し手が空いています。で、何をしているか。もちろん、読書は毎日するのですが、ここ数日は、映画やテレビドラマを見まくっています。全部日本のものです。外国ものが嫌いなのではなく、そこまで手を出すときりがないから、観ないようにしているだけです。それは、推理小説にぜったい手を出さない理由と同じです。手を出していしまったら、「あなたはもう逃げられない」ということになってしまうこと必定だからです。
 もったいない、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、日本のものだけで私は充分満足していますし、それに、これはちょっと仕事がらみになってしまうのですが、授業で使えそうな教材探しという目的もあり、そのためにはどうしても日本のものを優先せざるを得ません。
 私自身の好みと、授業で使えるかという基準から、おのずと観る作品は限られます。ベタな恋愛もの、ホラーもの、ヤクザもの、ヴァイオレンスもの、エロス系、「感動の超大作」的なやつ、ただの笑劇、水戸黄門的な予定調和的刑事もの、これらはすべてNGです。
 授業で使いたいと思った作品は、新旧ごちゃまぜですが、以下の通り。
 映画では、『下妻物語』(2004年)、『天然コケッコー』(2007年)。テレビドラマでは、『僕らは奇跡ででてきている』(2018年)、『捨ててよ、安達さん』、『私の家政夫ナギサさん』(どちらも2020年)です。
 いずれも、それぞれの仕方でとても斬新な設定で(『私の家政夫ナギサさん』は初回を観ただけなのですが、次回からが楽しみです)、充分に視聴者を楽しませつつ、人生の基本的なことがらにそれぞれしっかりと関わっていて、観ていてとても惹きつけられました。