内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

実りのあった小論文指導 ― 安易な比較論に陥らないための方法論

2020-07-03 16:07:59 | 哲学

 昨年の十一月十二日の記事で話題にした人文学科の学生の小論文指導は、学生当人が私の助言をよく聴き、論文作成過程で教示した参考文献の大半を真剣に読んでくれたこともあって、大変実りあるものであった。
 十一月に初めてオフィス・アワーで話し合った後も二回相談に来て、その都度熱心にメモを取って帰っていた。メールのやり取りも月に二、三回のペースで続け、特に大学が閉鎖された三月後半からはメールでの指導の回数も増えた。
 その間、特に私が感心したのは、けっして一度にいくつもの質問を無秩序にするのではなく、論文の構成に即して、かつ参考文献を読んだ上で、よく考えられた質問を一つ二つに絞ってすることだった。そうしてもらえたおかげで、こちらもそれだけ的確かつ迅速に答えることができた。
 もう一つ感心したことは、私が示した参考文献を手がかりに自分でさらに参考文献を探し、それらを読んだ上で、参考文献表に加えるに値するものかどうか必ず私に確認を取ることだった。それらの文献はいずれも信頼の置けるもので、それだけ文献表も充実したものとなった。
 人文学科の論文指導体制は実によくできている(しかもそれが学部二年生対象なのである)。テーマ選定、プラン作成、仮の文献表作成、その後プランに基づいて少なくとも三回はできた部分を順次提出するよう、通年の計画がきめ細かく決められている。書式も厳密に定められており、枚数25枚を上限とする。学生たちはそれらを遵守することが求められる。これも一つの大事な訓練だ。
 まず、人文学科の指導教授が約二十名の学生たちに対して、小論文の書き方についてのイニシエーションを行う。当の指導教授はヨーロッパ中世史の専門家だから、学生たちは何らかの仕方で中世に関するテーマを選ぶことを要求されるが、あとは自由だ。学生たち本人が選んだテーマに応じて、内容面での指導教官が指導教授によって選定され、指導依頼がその教官に行く(その中の一人が私だったというわけ)。
 私が指導した学生は、エックハルトと禅における détachement の宗教的次元における共約不可能性と人間経験の精神性の次元における普遍性をテーマとする論文を書いた。十一月の時点では、本人は中世キリスト教と日本中世仏教(あるいは神仏習合)との比較研究という漠然としたイメージしかもっていなかった。そこで、論点を明確にさせるために、まずエックハルトを読み、次に先行研究の中から禅との比較を行っている文献を読むように指示した。次に、その読解の中で見えてきた détachement(中高ドイツ語の abegescheidenheit)という比較可能な論点を掘り下げるように導いた。特に、安易な比較論に走らないために、エックハルトの専門家たちの中でこうした東西比較論に批判的な研究者たち(フランス人に多い)の論文をよく読むように注意した。
 論文作成の最終段階に入った五月中旬以降は、毎週のように出来上がった部分が送られてきた。それに対してすぐにコメントを付けて返すということを六月半ば頃まで繰り返した。そして、最終締切りの6月30日に完成論文が送られてきた。
 論文は三章からなる。それに先立つ序論は、論文のテーマを選ぶきっかけとなった引用から始まる(これは指導教授が定めたルールに基づく)。第一章は、エックハルトにおける détachement についての仏語圏での最新研究を踏まえて、その三つの経験の相を明確に区別し、いずれの相においても、それらは「魂における神の誕生」という最終的なテーマとの関係において位置づけられるべきであり、détachement と禅における放下との直接的な比較は、宗教論としては共役不可能な文脈ゆえに不可能であることを示す。第二章は、禅における放下は、日々の行いにおける実践であり、その意味で、それを超えた何からの目的に従属するものではないことを示す。第三章は、それでもなお両者を比較しうる次元はないのかと問う。結論として、現実世界における人間と世界との関係という普遍的な精神性の次元において両者は共通性をもつと述べている。
 半年あまりで、ここまで問題を明確化し、掘り下げることができたことは高く評価されるべきであり、今後の彼の哲学研究にとって、よい基礎訓練になったことを指導したものとして大変嬉しく思う。