内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

売り払われた蔵書のことを想いつつ、私設図書館を夢想する

2016-12-21 16:34:00 | 雑感

 今日はこれから出かけるので、ごく短い記事になります。
 帰国翌日の昨日から蔵書の整理を始めましたが、何部屋かに分散していた蔵書をできるだけ一部屋にまとめる作業から取り掛かることにしました。もともと何であれ整理することは得意であり、それが仕事道具でもあり、趣味の対象でもある本のこととなれば、その整理は得意中の得意だとも言えるのですが、作業をしながら、その数の多さに我ながらよくこれだけ買い集めたものだと呆れもし、正直いささかうんざりもしてきました。
 どうしよう、こんなにあって、とても全部船便でフランスに送れないし、かと言って、日本ではフランス語の本はとても売りにくいからなぁ。結構苦労して収集した書籍をやむなく売却するのは、ちょっと大げさに言えば、断腸の思いなのでありますが、留学直前の二十年前にも、十年前の一時帰国中にも、かなりの本を売り払いました。それも悲しくなるような金額で、です。もし学生時代から買い集めた本を一切売却せずに保存しておいたとしたら、少なく見積もっても二万冊は下りません。
 中には売却してしまってからひどく後悔した本も少なくありません。もちろん保管する場所さえあったとすれば、ほとんどの本は売らずに持っていたと思います(叶わぬ夢ですが)。それは単に自分自身のためばかりでなく、またしてもちょっと大げさな言辞を弄することが許されるならば、次の世代にそのまま受け渡すためでもあります。
 今回整理しながらも、今フランスでは絶版になっている本も一冊や二冊ではないことに気づきます。私は一回読んだらおしまいみたいな読み捨てればいい本はほとんど買いませんので、それらの絶版本は研究書として貴重なものでもあります。
 それら「失われた書籍」を心の痛みとともに思い出しながら、過去に購入したすべての本を収蔵した私設図書館を夢想しています。











大都会の中の奇跡のような大家族の温もりに触れて

2016-12-20 23:38:20 | 雑感

 今日の夕方、宿泊先の隣家の従兄弟夫婦・従姉妹の家族に一言帰国の挨拶をと思って、ささやかなお土産をもって呼び鈴を押した。従兄弟夫婦は私のブログを日頃読んでくださっていて、私がこの年末年始帰国することはご存知だったが、それにしても予告なしの訪問だった。お土産をお渡しして、ちょっと世間話でもしてお暇するつもりだった。ところが、私が今晩は独りだと知ると、食事をしていかないかと誘ってくださる。喜んで、そのありがたいお招きを受ける。「何もないけど」と仰りながら、実のところは大御馳走であった。
 そのご家族の構成は、私の父方の従兄弟のご夫妻とそのお姉様、つまり私の従姉妹、ご夫妻の次男(そして最近飼い始められた生後数ヶ月の猫ちゃん)。それに、ご夫妻の長男夫婦が徒歩二分のところに住んでいて、日常的に行き来がある。その若夫婦にこの九月に第一子の女の子が生まれた。夕食の支度を待ちながら、おしゃべりしているところに、その奥さんが仕事帰り、赤ちゃんを抱いて、花束と果物を持って従兄弟の奥様の誕生日祝いに訪れる。皆で食卓を囲みながら楽しく歓談しているところに、限りなく仕事に近い忘年会を終えて、若夫婦の旦那さんが立ち寄る。その間、若夫婦の生後三ヶ月弱の珠のように可愛い赤ちゃんは、皆に代わる代わる抱っこされ、皆から愛情のシャワーを注がれている。
 食卓のお喋りの話題は多岐に渡ったけれど、皆にとって共通の話題である、私にとっての叔父叔母夫妻の思い出やら、歴代のペットの話やら、話は尽きない。
 私の突然の訪問をなんら迷惑がることなく、こんなに暖かく迎えてくださったことに心からの感謝の気持ちを抱きつつ、自室に戻った。私の祖父の代から住まうこの東京の山の手の住宅街も、次から次へと昔からの家がなくなっていく中で、このご家族は、大きな家族として、それを当然のこととして東京に生きている。それはほとんど奇跡のようだと私は思う。











成田エクスプレスの車中から

2016-12-19 19:18:21 | 雑感

 先程ほぼ予定通りに成田空港に到着し、予約してあったモバイルWIFIを指定カウンターで受け取ってから、十五分ほど待っただけで成田エクスプレスに乗ることができた。渋谷で下車し、そこからはタクシーを使って宿泊先に向かう。
 宿泊先は「元」実家と今では呼ぶべき場所だが、それに併設されているアパートにちょうど空部屋があったので、そこに滞在できることになった。ありがたいことである。
 滞在中は、その「元」実家に置きっ放しなっている私の蔵書を整理しつつ、それらのうちのできるだけ多くをフランスに船便で送る手はずを調え、その傍ら翻訳の仕事を進める。その翻訳企画の担当編集者と会う日も先程26日に決まった。その日までにできるだけ仕事を進めておきたい。
 それ以降は、年末まで毎日人に会う。それが今からとても楽しみ。来年夏の集中講義を一緒に担当する院生とはその集中講義や本人の博論について話すだろう。ほぼ二年ぶりに会うフランス文学研究者の方からはその近況を伺うことになるだろう。十数年振りあるいはそれ以上に久しぶりに会う大学時代の友人との会食では一体どんな話になるだろうか。ENOJPの中心メンバーの一人ともおそらく大晦日か年明けに会って、ENOJPの来年の企画や今後の活動の展開の方向などについて話し合う。
 ちょっと過密なスケジュールで、ゆっくりはできそうにないけれど、会いたい人たちに会うことが、今年よりも遥かに忙しくなる来年に向けて、気持ちを前向きにしてくれることだろう。
 あと二十分ほどで渋谷に着く。











しばらく家を空けるときに必ずすること

2016-12-18 17:52:14 | 雑感

 今日の記事は、フランスからの年内最後の記事です。軽い話にいたしますね。
 旅行あるいは一時帰国などで少し家を空けるときはいつものことなのですが、家を出る直前に家の中を隅々まで掃除します。荷造りと並行してそれを行うので、出発前はいつも忙しいのです。特に年末年始に帰国する今回のような場合は、年末の大掃除を兼ねているので、なおのこと忙しくって、掃除と荷造りが終わると、ふぅーって感じで椅子の上にしばし倒れ込みます。
 それってぇ、自分でそうやって勝手に忙しくしているだけでしょ、バーカみたいって、呆れられる方も少なくないかも知れませんが(自分でもときどきそう思います)、家の中をキレイにしないままで家を空ける気にはどうしてもなれないんですねぇ。もともと綺麗好きですので、普段からそんなに家の中が散らかっていたり、汚れていたりすることはないのですが、それでも出かける前には家の中を全部キレイにしていかないと気が済まないんです。
 どうしてかいうと、帰ってきたときに家の中がキレイでないと気分が悪いというのが主な理由です。これはもうほとんど病的な潔癖症ですねって診断をくだされそうですが、それならそれで構いません。
 しかし、私としては、実は、もう一つ、もっと大事な理由があるのです。それは、ちょっと大袈裟に聞こえるかも知れませんが、「実存的な」理由です。
 私たちはいつ死ぬかわかりません。それは一瞬後かも知れません。さすがにいつもそんなことを考えていたら他のことが考えられなくなってしまいますが、旅行や帰国などで少し家を空けるとき、たとえそれが数日のことであっても、何らかの理由でこの同じ場所にはもう戻って来られないかもしれないとはいつも思うのです。そうなったとき、誰か他人が後始末のために元の私の家には入ることになるわけです。そのときに汚いところは一切見せたくないのです。この意味で、いつもきちんと始末をつけておきたいのです。他のもっと大事なことはどうなんだって、突っ込まれそうですが、そりゃぁ、そう簡単には行きませんよ、もちろん。それはともかく、しばらく家を空けるときは、だから、いつも家の中をキレイにしてから出かけるのです。
 今日は、家を出るのが午後二時頃でよかったので、朝はいつものようにプールで二千メートル泳いで帰って来てから、大掃除を開始し、それを無事終えた後、出発までにまだ少し時間に余裕があったので、湯船に三十分ほど浸かって汗を流しリラックスし、昼食もゆっくり取って、ワインも少し飲んじゃったりしてから、鎧戸をすべて降ろし、全自動暖房のスイッチを切り、ガスと水道の元栓を締め、家を出ました。
 この記事を書いているのは、シャルル・ド・ゴール空港に向かうTGVの中です。この九月あたりからでしょうか、TGVがパワーアップして、ストラスブールからシャルル・ド・ゴール空港まで二時間かからないのですよ。パリなんて1時間45分ですよ。ただ、その分しっかり料金が値上げされていて、SNCFもちゃんとそろばん弾いているですね(当たり前か)。
 明日付の記事から東京滞在日記になります。












会いたい人に会えるときに会っておきたい

2016-12-17 21:16:31 | 雑感

 明日午後ストラスブールを発ちます。年末年始の半月ほどを東京で過ごすためです。
 時間と予算に余裕があれば、いろいろとこれまでお世話になり、今は東京から遠いところに住んでいらっしゃる方々を訪ね、お一人お一人に直接ご挨拶申し上げたいとかねがね思っていますが、それは諸般の事情でなかなか実現し難い。
 今回の帰国では、東京でできるだけ会いたい方たちに会っておきたいと思っています。来年以降、帰国できる機会・期間がこれまでよりも少なくかつ短くなると予想されるので、可能なときに会いたい人に会っておきたいのです。
 「またいずれどこかで会いましょう」ということは期し難い。それは一般的にも言えることですが、私くらいの年齢になれば、そして会いたい方の中にはかなり高齢の方もいらっしゃることを考えれば、もう次回というのはないかも知れません。だから、こちらのそういう気持ちを理解してくださり、会うことを快諾してくださった方たちとは、会えるときに会っておきたいのです。会って面と向かって特に伝えたいことがある場合もあれば、昔の交友を想い出し、懐かしくその人の姿が思い浮かび、また会いたくなったという場合もあります。いずれの場合も、「また今度」はあるかどうかわかりません。
 今回の帰国中私と会うことを快く受け入れてくださった方々に心からの感謝を申し上げます。












自分の暮らす生活空間の中にそれを俯瞰できる内的観点を持っていることの慰め

2016-12-16 23:59:59 | 雑感

 ストラスブールは起伏のないほぼ平坦な街である。だから、自転車で移動するには好都合な街だとも言える。実際、私も普段の移動手段は自転車である。路面電車が特に発達しているのも同じ理由による。この利点は、しかし、そこに登れば街を俯瞰できる高台がないということでもある。確かに、カテドラルの途中までは登ることができ(私はまだ登ったことはないけれど)、街を見下ろすことができるけれど、それは人工的につくられた観点であり、自然の中にそのような観点があるわけではない。
 パリには、モンマルトルの丘があり、そこからパリ市内を一望できる。実際、観光スポットとしても人気のある場所だ(その他にもいくつか街の周辺に高台がある)。リヨンにも、市内に高台があり、市の中心からはそれを見上げ、その高台からは市内を一望できる。パリやリヨンは街が立体的だと言い換えてもよい。昨日、学会の後、バジリックのある高台まで歩いて登ってそこから街の夜景を写真に撮った。
 心が疲れたときなど、自分が普段暮らしている街を見下ろし、俯瞰できる「自然な」場所を自分の生活空間の中に持っていることは、一つの慰めになると思う。実際、昨晩も、何をするでもなく、高台から街を見下ろしている、明らかに観光客ではない人たち、つまり、地元の人たちを何人か見かけた。昨日は少しそれを羨ましく思った。













リヨン学会出張顛末記―もう、来たくないかも

2016-12-15 22:22:50 | 雑感

 今日の記事はちょっと砕けた調子で書きますね。
 今朝六時台のTGVでストラスブールを発ち、リヨンに十時に到着しました。SFEJ(Société Française des Études Japonaisesフランス日本学会)の二年ごとのシンポジウム・総会のパネルの一つの司会を頼まれていたからです。役割は無事果たしたと言えば言えるのですが、このパネルが実はまったく予定通りに行かなかったんですねぇー。
 今回のシンポジウムの総合テーマが「イマージュをめぐって」なので、それに沿って応募要旨が選考され、私も選考委員一人としていくつかの応募書類を数ヶ月前に読みました。私が担当したのは、宗教に関する表象をめぐる三つの発表が組まれたパネルでした。一つが江戸期の儒学の釈奠(せきてん)について、一つが中世における空海のイマージュ、一つが古代日本に伝えられたマニ教とネストリウス派の教説の表象でした。それぞれに興味深いテーマであり、しかもシンポジウムのテーマにピタリと沿っていました。それだけに、私も司会者としてそれなりの準備をするつもりでいたんですよ。
 ところが、空海のイマージュの発表者は、ハーバード大で研究中なのですが、同じく研究者の奥さんが妊娠したとかで、十一月半ばに発表を辞退し、釈奠についての発表者は、十一月末までに発表原稿或いは少なくとも草稿をパネルの責任者である私に送るべきであったのに、原稿を送ってきたのは発表前日の昨晩(しかも発表自体、締まりがなく、制限時間を思いっきりはみ出すし)、そして、誰とは言いませんが(ってたって知っている人はすぐに誰だかわかる碩学です)、マニ教とネストリウス派の教説の日本への導入についての発表者からは、昨日の朝になって、「病気だから行けない、原稿も間に合うかわからない」というメールが届いちゃったんですねぇ、これが。
 それらに対する私のその都度のリアクションは、「ああ、そうですか。これだからねぇ。日本学研究者ったって、フランス人だからねぇ、日本人だったら死んでも守るルールなんて関係ないだよねぇ。こういうの、もうゼーンゼーンありなんだよねぇ。はいはい、わっかりました、こっちでなんとかしますから、Ne vous inquiétez pas (心配シナイデ、ダイジョーブでーす)」って感じですかね(腹立てたってしょうがないんですよ。これって、もう完全に、暖簾に腕押し、糠に釘ってやつです)。
 その病欠の碩学は発表前日の夜遅くに原稿を送ってきて、「会場で君が読んでね。頼りにしているよー。後はよろしくぅ」って感じですからね(しかも、原稿慌てて作成したんでしょうね、フランス人にあるまじき打ち間違いがあるし。それ直したの、異国人の私ですよ)。
 今朝になって(四時起きですよ)、その原稿をプリントアウトし、TGVの中で読み、ホテルに着いてから、別便で送られてきた画像(メールの本文内に全部ベタで貼り付けてあるだけ)をパワーポイントに起こして、会場では、本人の代わりに私が原稿を代読したのでした。メデタシメデタシ、パチパチパチ。
 過去にも何度かリヨンには来ているのだけれども、いいことないんですよね。な~んか、鬼門なんですかね。
 明朝、さっさとストラスブールに帰ります。












父の命日に想うこと―個としての裸形の実存

2016-12-14 14:02:38 | 雑感

 今日十二月十四日は父の命日である。四十一年前のこの日に亡くなった。四十九歳の誕生日を迎える前日のことだった。上顎癌という比較的珍しい癌が死因であった。築地の国立がんセンターのベッドの上で亡くなった。母は当時四十五歳、私は十七歳で高校二年生、妹は十三歳で中学一年生であった。
 余命幾ばくもないことは、半年ほど前から本人も家族もわかっていた。いや、父自身はもっと前から覚悟していただろう。母と私はその病床の枕元で最期を看取ることができた。その壮絶な最後の瞬間を記憶している者は、しかし、この世にはもはや私しかいない。
 母も二年前の十二月二十二日に亡くなった。八十四歳だった。母の誕生日は十二月十日。奇しくも、両親とも十二月に生まれ、十二月に亡くなった。父は四十九歳になる前日という、いかにもその無念の人生を象徴するかのような日になくなり、母は、誕生日の三日後に親しい人たち大勢に囲まれて楽しく最後の誕生日を祝い、その九日後に自宅で静かに息を引き取った。母は私の帰国までは頑張ると、私の帰国を待ってくれていて、最後の五日間は実家の枕元で一緒に過ごすことができた。
 父が亡くなったときの年齢よりももう十ばかり多く徒に馬齢を重ねていることになる。次第次第に繋累が少なくなり、その意味でこの世との繋がりも細りゆく中、個としての裸形の実存が否応なく剥き出しにされてゆく。












来年度も夏期集中講義「現代哲学特殊演習」を担当します

2016-12-13 20:52:24 | 雑感

 先週ブリュッセルにいる間に東洋大学大学院教務課からメールが届いて、来年度も夏期集中講義「現代哲学特殊演習②」を担当することがわかった。これで七年連続になる。シラバスの登録は約一月後の1月18日なので、それまでテーマと内容をどうするかじっくり考えることにする。
 今夏の集中講義を手伝ってくれた東大の院生がちょうどブリュッセルの学会に来合わせていたので、来年度も参加してくれるよう頼んだ。まだ決定していないことだが、来年度は非公式にではなく、公式に協力してもらえる形にもっていけそうなことが哲学専攻長からの今日の返事でわかった。これは本人にとってとても喜ばしいことだ。
 私は、自分の集中講義が、大学院修士課程の演習という枠を超えて、テーマに関心を持つ人たちがもっと広く参加できる開かれた場所になることを願っている。それが履修している学生たちにとってもとてもいい刺激になる。それはこの夏の集中講義で実証済みだ。
 外国語のテキストを読むことを主にした講読も大切だが、私はそれとは違った演習を学生たちに提供したい。端的に言えば、自分の頭で真剣に問題を考え、議論する訓練の場を提供したい。そして、そこで始めた思考を演習の時間を超えて各自持続させること。教室での哲学演習という枠を超えて、日常の生活の中で問題を考え続けること。そうなってはじめて、生きていく上で役に立つ哲学を学んだことになる、そう私は考えている。













今週のヘヴィー・ローテーション―美貌のトランペット・ソロ奏者アリソン・バルサム『Paris / パリへの誘惑』

2016-12-12 19:00:32 | 私の好きな曲

 今日は、ブリュッセル滞在中未処理のままにしておいたメールへの返事等、不在中に溜まっていた仕事の処理に一日を費やしました。夕方から十日振りプールに行きましたが、やはりこれだけ間が開くと最初は体が硬く重い。それが徐々にほぐれて調子が上がってきたのは、千メートルほど泳いでからでした。それで今日はそこからさらにペースを上げて千二百メートル泳ぎました。明日も普段より少し長く泳ぎ、調子を取り戻したいと思います。
 さて、一日家で溜まった仕事の処理をしながらずっとストリーミングで聴いていた同じ音楽家の演奏があります。女性では数少ないトランペット・ソロ奏者アリソン・バルサム(Alison Balsom)のアルバムを何度も繰り返し聴いていたのです。すでに十数枚のアルバムが出ていますが、ヴィヴァルディ、バッハ、ヘンデル、ハイドンなどのバロック・古典音楽(及びそれらのトランペット独奏への編曲を含む)から武満などの現代音楽までとレパートリーは広く、いずれもそれはそれは見事な演奏です。こんなきれいなトランペットの音を私はこれまで聴いたことがありませんでした。どんな高音になっても音が尖ることがなく、繊細なパッセージの絹のような艶やかさと柔らかさは、いつまでも聴いていたいという気にさせます。
 それにお美しいのですよ。クラシック音楽界には、天はけっこう二物を与えちゃうんだよなぁと言いたくなる美貌の演奏家は少なくありませんけれど、アリソン・バルサムもその一人ですね。今日聴いた十数枚のアルバムの中では、2014年に出た『Paris / パリへの誘惑』が今週のヘヴィー・ローテーションです。その他のアルバムもみんないいですよ。未聴の方は是非お聴きになってみてください。