内的自己対話-川の畔のささめごと

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構想力の論理は形の論理である

2016-07-22 01:04:03 | 講義の余白から

 三木清の技術の哲学の根本概念の一つは「形」(Form)である。

技術によつて作られたものはすべて形を有し、技術的活動そのものも形を具へてゐる。形の見られる限り、技術が見られることができる。自然も技術的であると考へられるのは、すべて生命を有するものは形を有するところから考へられるのである。生物の形は進化論者が云ふやうに生物の環境に對する適應として、それ故に主観的なものと客観的なものとの統一として生じたものと見られることができ、その限りそこに自然の技術が見られるのである。そして我々に依れば、かやうに形の見られるところに構想力の活動が見られ、構想力の論理は形の論理である。(『全集』第八巻二二七頁)

 構想力の論理が形の論理であるというとき、その形は必ずしも目に見える形に限定されるわけではないはずである。そのように拡張された意味での形に対しては、複数の次元にそれを分けて考察する必要があるだろう。しかし、この引用文にかぎって言えば、目に見える形という限定された意味で使われていると考えても理解に支障を来すことはない。
 形を有つとは、あるものが単独で他とは無関係に己の形を有つということではありえず、必ずや互いに己自身を他から区別する複数の形が相互限定することである。この相互限定は一定の法則に従って実行され、その法則はそれに従う複数の形によって共有される。自然の生成は形の相互限定の過程であり、その過程を一定の方向に限定的に実行するのが「技術」である。
 自然においては、主観と客観との対立がまずあってそれが技術によって解消され、その結果として主観と客観とが統一されるのではない。まったく逆に、ある形の自己限定が他の形を媒介として一定の仕方で実行されているとき、つまり、形が技術的に相互的に自己限定しているとき、より端的に言えば、構想力が働いているとき、自ら形を取り且つ他に形を与えようとするものとその形成を一定の方向に限定するものとがそこに統一されている。その自然的統一が破れるところに、主観と客観との分裂が発生する。構想力は、しかし、新しい形の下に再び統一を回復しようとする。













































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