内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

西田とパスカル ― 交叉的読解の試み ―

2013-08-23 06:12:20 | 哲学

 現在勤務する大学に赴任してから7年半になるが、赴任の年2006年の秋にその勤務大学で「交差する文化」というテーマで国際学会が開かれ、そこで私も発表した。自分の専門領域でこのテーマにできるだけ相応しい発表にしようと思い、西田のパスカルの読み方の特徴を捉えた上で、そこから翻ってパスカルの『パンセ』のスタイルから西田のテキストの読み方を考えるという双方向的な二重の目的を自分に課した。この発表の原稿はフランス語ではスイスの出版社から翌年公刊されているが、日本語版はあまり目に触れる形では公刊されていないので、一部変更を加えた上で、今日と明日の2回に分けて、このブログに再録しておきたい。
 
 西田幾多郎はフランス哲学に対して終生変らぬ深い共感を示していた。西田によれば、フランス哲学の特性はその独特な「内感的哲学」にあり、その基礎はパスカルによって置かれ、その伝統はメーン・ド・ビラン、ラヴェッソンを経て、ベルクソンにまで至る(「フランス哲学についての感想」) 。

1.パスカル『パンセ』の2つの断章への西田の愛着

 西田はパスカル『パンセ』の2つのよく知られた断章、「考える葦」と「人間の不釣合」を好んで引用した(それぞれ、ブランシュヴィック版で、断章347、断章72。ラフュマ版では、断章200、断章199)。
 西田は歴史的現実の世界における人間の個物としての立場を語る際に、「考える葦」のイメージを引き合いに出す。人間の高貴さは、認識する人間において世界が自らを知ることによって自己限定し、自らの限界を知る人間において世界が自己超越することにあると西田はパスカルとともに考えていた 。他方、この人間の高貴さこそがこの世界における人間の悲惨を理解させるとも考えていた 。西田は「考える葦」のイメージが私たちの自己と世界との矛盾的自己同一を見事なまでに簡潔に表現していると見なしていたのである。
 「人間の不釣合」という小見出しが通常付けられる、『パンセ』中最も長く、最も入念に仕上げられた断章の中に見られる「中心がどこにもあり、円周がどこにもない無限の球体」というメタファーに、私たちが現に生きるこの世界の的確な表象として、西田は「考える葦」以上に愛着を持っていた。西田がこのイメージに訴えるとき、幾何学的イメージに物理的世界の記述を重ね合わせることによって二重の無限性が顕現する形象が取り上げられていたのであり(Jean MESNARD, Les Pensées de Pascal, Paris, Société d’édition d’enseignement supérieur, 1976 ; 3e éd. 1993, p. 88参照)、それは世界の創造性の起源として自己限定する絶対の現在、つまり私たちの身体的自己のそれぞれにおいて生きられ、世界のいたるところに常に見出される契機に力点を置くためだった 。パスカルにおいては「神の顕現の一つ 」として解釈された自然に適用された形象が、西田においては、創造的世界としての歴史的現実の世界に適用されているのである。しかしこの西田一流の「誤読」は、神の顕現を「被造物を変容させ、その瞬間においてそれを創造者に同一化する 」(Georges GUSDORF, Le romantisme, tome I, Payot & Rivages, 1993, p. 534.)作用と解することができるかぎり、西田がパスカルを曲解していたことを必ずしも意味しない。西田によれば、世界は自らのうちにおいて、私たちおのおのにおいて、つまりこの創造的世界に比しては無限に小さい存在それぞれによって、無限の過程として自らを表現する。私たち自己のそれぞれは時間空間的に限定された無数の点の一つに過ぎないが、しかしながら、世界がそこにおいて自らを映し、そこから自らを見、そこにおいて自己形成的な一つの形を自らのうちにおいて自らに与える、パースペクティヴの一中心である。パスカルにとって「神の万能について感知しうる最大のしるし 」(『パンセ』ブランシュヴィック版、断章72)であったものを、西田は私たちひとりひとりがその創造的要素である創造的世界の本質として捉えているのである。世界は私たちの自己それぞれにおいて行為的身体という形で自己限定しながら自らを表現すると同時に、私たちの自己は歴史的世界がそれに他ならない創造的世界内の創造的要素として自らを表現する。これが西田哲学における自己と世界との関係の定式である。私たちの自己すべてが生きる世界においてそのそれぞれによって表現された創造性を前面に出すことによって、西田は自然あるいは世界における人間の立場の積極面を強調したのである。
 上記二つのイメージへの愛着とそれらが引用される文脈は、西田がパスカルをどのように読んだか、その特徴をよく示しているだけではなく、西田が両断章の連続性をその思考内容に即してよく捉えていることを示してもいる。というのも、この両断章は、今日の代表的な『パンセ』校訂版では、「人間の知識から神への移行」と題された草稿束に収められた断章として連続して配置されているから、その連続性は一目瞭然なのだが、西田が参照したブランシュヴィック版では、離れ離れに異なった章の中に見出され、両断章に共通する思考の的確な把握は西田自身の『パンセ』読解に拠るからである。


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