内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

和泉式部の「つれづれ」、あるいは存在の空虚と共振する言葉(五)

2019-04-30 23:59:59 | 哲学

 宮邸入りを決心した女の所に宮が訪ねてきて、「かしこに率てたてまつりてのち、まろがほかにも行き、法師にもなりなどして、見えたてまつらずは、本意なくやおぼされん」(「あなたを私の邸にお連れ申し挙げた後で、私がよそに移ったり、法師になってしまったりなどしてお逢いしなくなったら、期待はずれで不満にお思いになるだろうか」)などと心細いことを言うのを聞いて、女は動揺する。頼れるのは宮だけなのに、その肝心の宮がいなくなり、自分一人宮邸に取り残されるなど、想像しただけで耐え難い。女は涙を流す。「なにの頼もしきことならねど、つれづれのなぐさめに思ひ立ちつるを、更にいかにせまし」(「お邸にあがるのは、何といって期待出来ることではないけれど、宮様のお側にあがればつれづれの慰めにはなろうと思って決心していたのに、今更どうしたらよいのだろう」)と女は思い乱れる。
 『和泉式部日記』には、「つれづれ」という言葉が、宮の言葉の中や宮の心情をあらわす描写の中にも五回使われている。宮もまたつれづれの慰めを求める人であった。しかし、つれづれの慰めを求め合う宮と女との恋(こひ)は持続的な愛として成就することはない。それはたまたまそうならなかったというのではなく、最初から二人にはありえないことだった。愉しい時間を二人で過ごすことがあっても、その後には必ず、女は孤悲(こひ)に戻らざるを得ない。罪業からの解脱や魂の救済を求めて出家する決心もつかない。「冥きより冥き途」へと世の中を眺め暮らすほかはないのだ。












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