内的自己対話-川の畔のささめごと

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ホイジンガ『中世の秋』― 熟しきり死にゆく時代の細部を生き生きと描き出す喪の作業

2021-12-28 04:39:56 | 読游摘録

 ホイジンガの『中世の秋』(堀越孝一訳 中公文庫 2018年 文庫初版 1976年)を最初に読んだのは、四十年以上前、中公文庫版だった。なんとなく書名に惹かれてのことだった。手元にはもうその文庫版はなく、2018年刊の中公文庫新装版の電子書籍版で読み直している。こういう歴史叙述の名品(オランダ語原本の初版は1919年刊)はやはり紙の本で味わうように読みたい。手元には、1932年に初版が刊行された仏訳がある。現在は Payot & Rivage 社の文庫版叢書 « Petite Bibliothèque Payot » の一冊(1989年刊)として簡単に入手できる。
 この仏訳の巻頭には、中世史の大家 Jacques Le Goff の Claude Mettra との対談が収められている。この対談が『中世の秋』を現代の歴史研究の趨勢の中で読み直すためのよき案内となっている。この対談の冒頭で、1932年に最初の仏訳が出版されたときのタイトルが Le Déclin du Moyen Âge だったことが話題にされている。このタイトルは、その当時の中世に対する一般的認識を反映しており、またシュペングラーの『西洋の没落』(第一巻 1918年 第二巻 1922年)の影響もあったろう。
 しかし、衰退を意味する déclin という語の選択は明らかに不適切だ。ホイジンガが「秋」というとき、それは死滅を前にした爛熟期を意味しているからである。そのことは、仏訳には収められていないが、中公文庫版では巻頭に置かれている「第一版緒言」を読めば明らかだ。

たいていの場合、ひとは、新しいものの起源を過去にさがそうとする。新しい思想、新しい生活の形態がどのようにして生まれいでて、後世、まったき光を輝きはなつにいたるかを知りたがるのだ。ひとは、どの時代も、その次の時代に約束されたものを隠しているとみ、なによりもまずそれを知りたがる。近代文化の萌芽を中世文化にさがしもとめようとの努力が、なんと熱心に続けられてきたことか。[中略]かつては、死んだ時代、硬直した時代とみなされていた中世が、いや、実はすでに新しいものが生まれいでていた時代であった、すべてが近づく完成をめざしていた時代であったとみられるようになったのである。だが、新しい生の誕生のことをたずねるに熱心なあまり、歴史においても、自然におけるのと同様、死と誕生とはその歩調を一にしているとのことが、ともすれば忘れられがちになってしまったのであった。古い文化の諸形態が死滅する。そのとき、その同じ土壌に新しい文化が養分を吸い、やがては花を咲かせる。

 ホイジンガは、十四、五世紀を、ルネサンスの告知とは見ず、中世の終末と見ようとする。

中世文化は、このとき、その生涯の最後の時を生き、あたかも思うがままに伸びひろがり終えた木のごとく、たわわに実をみのらせた。古い思考の諸形態がはびこり、生きた思想の核にのしかかり、これをつつむ。ここにひとつのゆたかな文化が枯れしぼみ、死に硬直する。

 来たるべき「輝かしい」時代を準備する萌芽をその前の時代に是が非でも探り出して、その時代を「再生」させようとするのではなく、その時代の熟しきり死にゆく文化をその細部に至るまで生き生きと丁寧に描き出す喪の作業が美しい絵画の如きこの歴史叙述の名品を生み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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