内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

他人のつらさを自分のつらさのように感じることができるか ― 吉野弘「夕焼け」を読んで

2017-08-27 18:18:14 | 哲学

 昨晩、人とレストランで夕食を一緒しながら話していて、ふと2004/2005年度にパリ第七大学で担当した学部三年生の日本語作文の授業のことを思い出した。
 出席者は毎回四十人前後。毎回こちらでお題を決め、四百字の作文を書かせ、翌週提出させ、その次の週には、添削で真っ赤になり、裏にはコメントを記したを原稿用紙を返す、ということを一年間続けた。
 その一年、学期中は毎週末それらの作文の添削にかかりきりだった。その作業を覗きに来た当時十歳の娘が学生たちの奇妙な日本語を見て笑っていたのを思い出す。
 毎回の授業は、前週に提出された作文についての全体的な講評と添削していて気づいた問題点などを指摘することから始めた。その後、次の作文に使ってほしい表現を具体例を挙げて説明した。
 肝心な毎回のお題はどうやって決めていたかというと、日本語あるいはフランス語のテキストを教室で学生たちに初見で読ませ、そのテキストから私の方で一つのテーマを引き出して、それを一つの問いの形にして学生たちに与えていた。
 読ませたテキストは様々だったが、それらの中には、哲学的な文章(ピエール・アドの対談やレヴィナスの葬儀の際のデリダの弔辞など)もあったし、テキスト自体は文学的だったとしても、そこから私が引き出した問いは哲学的であることが多かった。
 だから、学生たちは、単に感想を述べるだけようないわゆる作文を書くわけには行かず、むしろ彼らが大学に入る前にすでに書いた経験がある dissertation に近いものを、短いとはいえ、不自由な日本語で書かなければならなかった。
 最初は、そのあまりにも哲学的な問いを前に学生たちは戸惑っていたが、問いそのものの大切さが納得できると、真剣にその問いに取り組んだ文章を書いてくれた。中には本当に優秀な学生が何人かいて、彼らの書いた作文を読むのは毎回楽しみでさえあった。その他の学生たちもかなり熱心に毎回書いてくれたから、こちらもそれに応えるべく、丁寧添削した。
 その甲斐があったのか、年度最後の授業の終わりに、学生たちが感謝の徴として拍手してくれたのは本当に嬉しかった。フランスで教え始めて十九年になるが、この一年間の作文の授業が自分にとって最もうまくいった授業として今も記憶に残っている。学年末のアンケート調査でも学生たちから最も高く評価された授業だったと後日学科長から聞き、単なる自己満足でもなかったと自信にもなった。
 その作文の授業で、吉野弘の代表作の一つ「夕焼け」を読ませたことがある。三年生ともなれば、初見で辞書無しで読んでもすぐに理解できるほど平易な日本語で書かれた詩である。国語の教科書にも載っていることが多いから、特に詩に興味がなくとも読んだことがある方は少なくないであろう。
 その時のお題が今日の記事のタイトルである。












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