内的自己対話-川の畔のささめごと

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個体化された一存在が道徳的主体になる契機 ― ジルベール・シモンドンを読む(141)

2016-10-30 05:51:30 | 哲学

 価値と規範との関係が規定された上で、個体化された一個の存在が道徳的主体になる契機へと考察は移る。

Considéré comme recélant en lui une réalité non individuée, l’être devient sujet moral en tant qu’il est réalité individuée et réalité non individuée associées (p. 333).

己の内に個体化されていない現実を含み持っているものとして考えられるとき、存在は、個体化された現実と個体化されていない現実との結びついたものとして、道徳的主体になる。

 道徳は、規範の中にも価値の中にもないのであって、両者のコミュケーションがその現実的な中心において把握されたところにしかない。規範と価値は、存在のダイナミズムの極限項なのであって、それだけで存在内に互いに独立に成り立っているものではない。両者ともに存在の個体化過程を通じてシステムの中で生成の相関的な二相として分化して現れてくる。
 シモンドンは、ここで、ベルクソンが『道徳と宗教の二源泉』の中で提示した閉じた道徳と開かれた道徳という対立図式を、ベルクソンの名前を出さずに、批判する。その対立図式は、歴史の中に見られた進歩を前提として、事後的に構成されたものに過ぎず、閉じた道徳が開かれた道徳に取って代わられるというは幻想に過ぎない、というのがその批判の主旨である。
 シモンドンによれば、倫理が成立するのは、価値と規範という二つの相関する相が分化するところにおいてであり、規範が価値に取って代わられることによってではない。そして、倫理が価値と規範の二相に分化するところには、必然的に何らかの倫理的な問題が胚胎する。

Normes et valeurs n’existent pas antérieurement au système d’être dans lequel elles apparaissent ; elles sont le devenir, au lieu d’apparaître dans le devenir sans faire partie du devenir ; il y a une historicité de l’émergence des valeurs comme il y a une historicité de la constitution des normes (ibid.).

規範と価値は、存在のシステムに先立って存在するものではなく、そのシステムの中に現れる。規範と価値は、生成するものであり、生成の一部をなすことなしに生成の中に現れることはない。規範の構成に歴史性があるように、価値の出現にも歴史性がある。

 倫理をその全体において把握するためには、規範と価値との分化が発生する存在の生成過程に付き添っていかなくてはならない。
こう述べられた直後の一節は、すでに10月2日の記事で引用し、それについて意訳とコメントを付してあるので、そちらを参照していただくことにして、ここでは繰り返さず、その直後の一節に移ろう。

Il y a éthique dans la mesure où il y a information, c’est-à-dire signification surmontant une disparation d’éléments d’êtres, et faisant ainsi que ce qui est intérieur soit aussi extérieur. La valeur d’un acte n’est pas son caractère universalisable selon la norme qu’il implique, mais l’effective réalité de son intégration dans un réseau d’actes qui est le devenir (ibid.).

倫理があるのは information があるかぎりにおいてである。つまり、複数の存在の諸要素間の乖離を乗り越え、かくして内的なものが外的なものでもあるようにする意味作用があるかぎりにおいてである。ある行為の価値は、その行為が内含している規範にしたがって普遍化可能なその性格ではなく、その行為が諸行為連関つまり生成の中へ統合されているという実効的現実である。

 ここで言われている諸行為の連関とは、ネットワークであって、諸行為の連鎖ではない。諸行為の連鎖は、ネットワークが抽象的に単純化されたものである。ところが、倫理的現実は、まさにネットワークとして構造化されている。つまり、諸行為間に相互的な共鳴があるということであり、しかも、その共鳴は、それら行為にとっての明示的あるいは内含的な規範を通じてではなく、それらの行為が形成するシステムつまり存在の生成であるシステムの中で直接的に成り立つ。















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