内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本語に見られる「ソコントコ、ヨロシク」的な「甘えの構造」に抗して

2023-12-15 23:59:59 | 日本語について

 「人のことをとやかく言う前に、まずてめえの心配しろ」と見識ある諸氏からどやされてしまうかも知れないが、授業で日本語の文章を一文一文構造に注意しながら読んでいてつくづく感じることがある。
 高名なセンセイの場合でも、厳密に言うと辻褄が合っていない文に出会うことがかなり頻繁にある。そんな文を学生たちに説明するとき、著者を弁護したい場合もあるが、逆に、こんな文章を読まされたら、日本語を勉強している側としてはかなわないよね、と彼らに同情したくなることも同じくらい頻繁にある。
 文の構造に関する問題は多々あるのだが、とりわけ、文と文との間の論理的関係に基づかず、「気分の流れ」とでも呼びたいような繋がりを頼りに書かれている文章がなんと多いことか、と慨嘆することがしばしばある。言い換えると、「まあ、そこんところ、よろしく」みたいな、読み手に寄りかかって構造の不備を不問に付している文がうんざりするほど多いのである。これを日本語における「甘えの構造」と私は密かに呼んでいる。
 今日授業で読んだ文章のなかから一例を挙げよう。すでに物故されている著者の名誉のために書名も著者名も伏せる(内容からすぐに特定されてしまうかも知れないが)。

しかもこれらの幕末から明治にかけて来日した外国人はきわめて多数にのぼり、かつその中には、伝道のために派遣されてきた宣教師もかなり多かったが、その大多数が幕府、明治新政府などによって欧米諸国から招聘され、雇用されたいわゆる「お雇い外国人」であったところに、前代に見られない特殊な歴史的性格をもっている。

 いったい何が「歴史的性格をもっている」のだろうか。ここは、例えば、「歴史的性格を見ることができる」とでもすべきところであろう。こうすれば、主語あるいは提題がなくても、「(一般に人は)そのように見ることが(様々な証拠から)できる」という意であると解することができる。
 思うに、著者は、この文を書いたとき、自分は「お雇い外国人」というテーマで書いているのだから、この文もその「気分」のなかで書いており、そのことは読者にも共有されていると気分的に前提していたのだろう。だからここも「(幕末から明治前期に多数来日した「お雇い外国人」は「前代に見られない特殊な歴史的性格をもっている」というつもりで書いたのである。そう理解してはじめてこの文は論理的に整合性のある文として翻訳可能になる。
 もう一例挙げよう。これは先週の授業で読んだ文章である。

私たちの国は、一貫して翻訳受け入れ国であった。

 見たところ単純なこの文の問題は構文上のそれではない。表現上の曖昧さの問題である。前後の文脈から明らかなことは、この文が言いたいことは、「(誰か外国人の手になる)翻訳を受け入れた国」ということではなく、「自分たち自身の手になる翻訳によって(外国の文化・思想・知識などを)受け入れた国」ということである。
 誤解の余地はないではないか、と言われる向きもあろう。その通りである。が、言いたい。日本語の文章をフランス語で説明する稼業に勤しんでいると、この手の文に出会っては溜息をつきたくなることが日々あるのだ、と。「忖度を読み手に強いる」とまでは言わないが、「ソコントコ、ヨロシク」的な日本語文に出会うたびに、しかもそれが一流とされる著者の本のなかであるとき、「日本語の前途は暗い」と、つい悲観的な気分に陥りかねないのである。
 身近な人たちからは「ムズカシスギル」とお叱りを受けることの多い拙ブログだが、上記のような「甘えの構造」が蔓延する日本語の現実に暗澹としつつも、日本語の未来を照らす一隅の光たらんと、志だけは高く持しているつもりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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