昨日の記事のなかに引用した興膳宏氏の一文中の「せいぜい」という言葉がちょっと気になったので手元の国語辞典や古語辞典で調べてみた。
引用文では「難解な『荘子』の思想をせいぜい平易に解きほぐして」となっており、文脈からして、「出来る限りの努力をする様子」(『新明解国語辞典』第八版)という肯定的な意味で使っていることは明らかだ。ところが、私個人は「せいぜい」を肯定的な意味で使うことはまずない。「どんなに多く見積もったところで、それが限度だと判断される様子」(同辞典)という、どちらかといえば否定的な意味でしか使わない。例えば、「集まったとしてもせいぜい(で)四、五人だろう」(『三省堂国語辞典』(第八版)というように、それ以上は期待できないとか、無理とか、ありえないとか、そんな意味で使う。
参照した上掲の二つの辞書とも「精々」と漢字をあてている。これだと肯定的な意味になることがあるのもわかる気がする。『新明解国語辞典』には、見出し語の下、語釈の前に、「〔中世語「精誠」〘=誠意を尽くすこと〙の変化という〕という説明がある。そこで手元の古語辞典を片端から調べていったのだが、立項しているのは『岩波古語辞典』(補訂版)のみ。その項には、見出し語の下に「精誠」と漢字表記され、「まごころ。誠心。丹誠。」を語義とし、用例は『平家物語』巻第五の「富士川」の段から「ひそかに一心の精誠を抽で」を挙げている。この用例は「特に真心を込めて、参詣し」(岩波文庫版)、「誠心をこめて、参詣し」(講談社学術文庫版)という意である。ただし、どちらの版も「精誠」に「しやうじやう」(しょうじょう)という訓みを当てている。
「しょうじょう」が「せいぜい」と訓まれるようになったのがいつからかは手元の辞書類ではわからなかったし、いつから「せいぜい」がネガティブな意味で使われるようになったかも確定できなかった。
ただ、『三省堂国語辞典』の同項の語釈及び豆知識が興味深かった。
①それ以上はないことをあらわす。多く見積もって。たかだか。関の山。②〔あまり結果を期待しないが〕できるだけ。「ま、せいぜいがんばってくれ」③〔古風〕じゅうぶんに。「せいぜいがんばってください」
こう三つ語義を示した後に豆知識として、「年配者が③の意味で使っても、若い世代に②の意味に誤解されることがある。」と付け加えている。つまり、「年配者」(って、何歳から?)が「若い世代」への誠心からの励ましの言葉として「せいぜいがんばってください」と言ったのに、当の「若い世代」は、「(ま、君たちに期待なんてしているわけじゃないけどさ)それなりにがんばってみてよ」みたいに、ちょっと小馬鹿にされたか皮肉を言われたかと受け取りかねないということである。
私は歴とした「年配者」だが、③の意味では使わない。もし誰かから「せいぜいがんばってください」と言われたら、「若い世代」ではもはやまったくないにもかかわらず、直感的に②の意味に取り、年甲斐もなく内心むっとする可能性が高い。まあ、文脈によるとは思うけれど。
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