内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

読点考 ― 音楽記号的用法、視覚的効果を狙った用法、思考のリズムの自発的表現としての用法

2023-12-16 12:30:42 | 日本語について

 学生たちの口頭発表用の原稿を添削するとき、文法的には必要なく、内容理解にとっても誤解の余地のない箇所であっても、私は読点をかなり加える。なんのためかというと、彼らが原稿を読み上げるとき、比較的長い一文を一息に読まずに、一呼吸おく場所を示すためである。聞いている学生たちが発表内容をよりよく理解できるようにするための配慮である。この場合、読点は楽譜に用いる休止記号のように機能する。
 他方、自分自身が書く文章に関しては、つまり音読されず黙読されるだけという前提で書かれる文章に関しては、できるだけ読点を打たないように心がけている。言い換えると、読み下していけばそのまま視覚的に文節相互の関係がわかるような文を書くように心がけている。この視覚的な読みやすさのためには漢字と平仮名(およびカタカナ)との配分も重要な役割を果たすが、これは今日の記事のテーマではないので立ち入らない。
 論理的に明快な日本語文を書くために読点は必ずしも必要ではない。もちろん、読点がないと誤解されたり文意が曖昧になったり、読点の打ちどころによって文意が変わってしまう場合には打たなくてはならない。
 これらの読点の使用が不可欠な場合とは別に、いわば心理的効果を狙った用法もある。それは必ずしも文学作品における用例に限られない。
 たとえば、昨日の記事で引用した一文「私たちの国は、一貫して翻訳受け入れ国であった」を見てみよう。この読点は、あってもなくても、文意に変化は生じない。しかも、この提題「私たちの国は」はこの一文を超えて同段落のテーマを支配しない。では、なぜ著者はこの提題の後に読点を打ったのであろうか。
 これは私の推測(あるいは邪推)に過ぎないが、著者は読点を打つことで「さあ、この提題について、この直後に一つ大事なことを言いますよ」と予告したかったのではないだろうか。言い換えると、読点で「間」あるいは「ため」を作ることによって、読点以下の述部をより強調したかったのではないだろうか。このような用法を「読み手に対する視角的効果を狙った用法」と私は密かに名づけている。
 この文をそこから引用した本には、提題の副助詞「は」の後に読点があったりなかったりして、その使用法は見たところ一貫していない。その有無は、文の長さと一定の関係があるわけでもなく、副助詞「は」に先立つ名詞句の長さに応じて決まっているわけでもない。かといって、気分次第で打ったり打たなかったりしているわけでもない。概して明快な文章である。
 上掲の例文から読点を省いて「私たちの国は一貫して翻訳受け入れ国であった」としてしまうと、この一文全体が視覚的に一塊となってしまう。それはそれで別の効果を生み出すことも文脈によっては可能であろうが、まさにそうであるからこそ、「は」の直後の読点には一定の意図が込められていると考えることができる。
 いや、そうとばかりも言えない。こうも考えられる。この読点にそんなはっきりとした意図など込められてはおらず、ただ著者の思考のリズムが自ずと打たせたのだ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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