内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

悲哀と苦悶 ― 西田哲学の奥処へと至る道程

2019-06-27 23:59:59 | 哲学

 今日一日、幸い大学関係の仕事は来年度前期時間割修正などわずかしかなく、明後日の発表の準備に集中することができた。序論のスライドと本論四章中三章のドラフトはほぼ完成し、あとは最終章と結論のスライドを仕上げればよいところまで来た。序論と第四章及び結論は原稿なし、メモだけで話す。
 序論では、まず、西田のいくつかの随筆の中で「悲哀」という語がどのような意味で使われているかをそれぞれの文脈の中で確かめる。そして、『無の自覚的限定』の第二論文「場所の自己限定としての意識作用」の最後の一文「哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」の「人生の深い悲哀」という表現の意味するところを、西田の和歌の代表作の一つとしてしばしば取り上げられる「わが心深き底あり喜も憂の波もとどかじと思ふ」との関係において捉える。この序論は、西田哲学における souffrance(苦悶)という主題へのいわば前奏の役割をもっている。
 本論は、ミッシェル・アンリの生命の現象学と西田の歴史的生命の哲学との対決からなる。第一・二章では、この対決によって浮き彫りになる両者に共通する根本問題の大枠を示す。後半二章では、問題場面を souffrance(苦悩・苦悶・受苦)に限定して、両者の決定的な違いを明らかにする。
 結論では、序論・本論の議論から souffrance がなぜ哲学にとって重要な問題になるのかという問いへの答えを引き出す。












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1 コメント

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ねばならぬ (funkytrain)
2019-06-29 10:28:32
こんにちは。今回引用されているのは「哲学は我々の自己の自己矛盾の事實より始まるのである。」のところですね。西田全集をもっていながら、西田哲学がまったく頭に入ってこない当方としては、西田哲学について書かれるのを楽しみにしております。

それにしてもなぜ西田哲学が入ってこないのか。
ひとつにはあの文体です。「〇〇は〇〇であらねばならぬ。〇〇が〇〇であるならば、〇〇であらねばならぬ。」という怒涛の「ねばならぬ」の波状攻撃で脳がやられてしまうということがあるのでしょうか(笑)。哲学史上これほど「ねばならぬ」を多用した人がほかにいるのかな?と思うほどです(笑)
「ねばならぬ」の波状攻撃にあって、読み手たる自分は「そうですか、ねばなりませんか、そうでしょうきっと」という一種のあきらめの気分に陥ります。なので、西田哲学を研究できる人というのはあの怒涛の「ねばならぬ」に耐えぬく強靭なハートをもった人なのかもしれません(笑)。
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