内的自己対話-川の畔のささめごと

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春山万花の艶と秋山黄葉の彩との美の競いに巧みな決着をつける額田王歌

2018-10-29 17:19:17 | 読游摘録

 『万葉歌人の美学と構造』の巻頭を飾る「“花”の流れ」という美しい題が付けられた川口常孝の論文は、「一 記紀歌謡から万葉へ」と「ニ 家持と世阿弥」の二章からなっている。前者は、昭和四十五(1970)年五月の古代文学会例会口頭発表がその基になっており、後者は、歌人でもあった川口が編集同人であった『まひる野』に同年九月に発表された原稿の再録である。後者には後日立ち戻るとして、今日から何回か、前者に即して、万葉集における〈花〉の意味論的推移を見ていこう。
 同論文で問題にされる「花」について、川口は同論文の冒頭で詳細に規定しているが、その細部を省いて一言で要点を言えば、個々の花でもなく、諸種の花でもなく、花の種々相でもなく、それらをその共通の本質において捉える一般概念としての〈花〉がここでの問題である。
 〈花〉の意味論的推移を万葉集の通常の四期分類にしたがって順に見ていくとき、第一期で特に注目される歌は、巻第一・一六の額田王の名歌である。まずその題詞を読んでみよう。

天皇、内大臣藤原朝臣に詔(みことのり)して、春山の萬花の艶(にほひ)と秋山の千葉の彩(いろ)とを競(きほ)ひ憐(あは)れびしえたまふ時に、額田王が歌をもちて判(ことわ)る歌(読み下し文は、伊藤博『萬葉集釋注』のそれに従った)

 天智天皇が、春山の万花のあでやかさと秋山の千葉のいろどりと、どちらに深い趣があるかを、鎌足を通じて廷臣たちに問うた。廷臣たちは、漢詩をもって争った。しかし、なかなか決着を見ない。そこで、最後に、額田王が倭歌によって判定を下した。題詞は、そういう歌の場を想像させる。こう『釋注』は推定する。そして、「大陸的な文雅のにおいの充ちた、天智朝遊楽の一日であった」と、その日の雰囲気を想像する。小川晴彦も、「天皇は漢詩で優劣を競わせたようです。春と秋の優劣を争わせるという中国の文雅を天智天皇は廷臣たちと楽しんだのです」(『万葉集 隠された歴史のメッセージ』)と似たような推定をしている。川口論文も、大陸文化の移入政策をとった近江朝廷文苑では、この種の行事や心事は、「日常の出来事であったはずである」と、伊藤・小川のそれと近い立場を取っている(13頁)。
 ところが、岩波文庫の新版『万葉集(一)』の注釈では、春と秋とを比較して優劣を競うことは、後の和歌には見られるが、「中国の詩文には類例が見られない」と、まったく反対の断定を下している。さらに、「額田王の歌の前に男性官人の漢詩の応酬があったことを想像する説があるが、中国の詩文に例のないそのような趣向が、当時の日本人の詩に詠まれた可能性は小さい」と、上掲の伊藤・小川の推測に対して懐疑的である。
 しかし、ここでは、このような春秋優劣論の起源が中国にあるかどうかという問題は措く。ただ、題詞に関して一言だけ注しておけば、優劣が問われているのは、春山の万花の艶と秋山の黄葉の彩であって、〈春〉と〈秋〉そのものではない。両者の美の優劣が問われている。
 さて、歌そのものを読もう。

冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山我れは

 額田王は、春秋の美しさの優劣を論断するのではなく、その美への接近可能性において、「秋山そ我は」と、秋山に軍配を上げている。論点を巧みにずらし、さらに秋山の難点も一言添えた上で(岩波文庫新版『万葉集』はこの解釈を取らないが)、そして突如、「でも、私は、秋山です」と判定を下している。『釋注』が想像するように、この歌は、この結句を聴いた「一座の喝采をあびたにちがいない」。
 額田王歌の詠まれた場面についての前置き的注解だけで、一日の記事としてはすでに長くなりすぎてしまったので、同歌に即して〈花〉について重要な論点を提示している川口説の紹介は、明日以降の記事に譲る。












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