内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

王権的立場を詠作する「御言持ち歌人」による大陸的詩的感性の導入

2018-10-30 15:14:25 | 読游摘録

 巻第一・一六の額田王歌をもう一度読んでみよう。

冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨めし 秋山我れは

 この歌でまず注目されるのは、「冬」「春」「秋」「鳥」「花」「山」「草」「木の葉」、これらすべての語が、何かある特定の時間・場所や自然の具体的景物・色彩を指しているのではなく、一般的な対象を提示していることである。つまり、これらの要素は、具体的叙景の構成要素としてではなく、それら要素間の一般的・抽象的関係において相互に規定されている。
 この点に関しての川口常孝の所説に耳を傾けてみよう。

一首全体が、春花秋葉の争いの帰結という形で、ある思想の提示を行っているのである。このことは、事物の推移の一般的な観点からすれば、終末に来るべき到達点(抽象化=思想の成立)が当初に出現してしまったということである。[中略]この国を歩かずして到達された異国産のそれ、額田王の到達点は、まさにそのような到達点であったのである。春秋の争いを三韓、中国系統の説話とする見方は、早く先学によって示されており、大陸文化の移入政策をとった近江朝廷の文苑では、「春山の万花の艶と秋山の千葉の彩とを競憐」う底の行事や心事は、日常普通の出来事であったはずである。このように王作が大陸文化を継承しての詠作であってみれば、その「花」は、大陸思想の好尚に洗われた花であればよく、なんら具体的な花であることを要しない。感性もまた輸入されるものである。王作の基盤にあるものは、彼女自身の感性の論理である以上に大陸詩の感性の論理であったのである。(『万葉歌人の美学と構造』13頁)

 この川口説に全面的に与するかどうかは今しばらく措くとして、この説が注目すべき論点をいくつか含んでいることは確かだ。
 まず、記紀歌謡からは順接的に導出され難い、それらとは異質な詩的感性がこの歌によって表現されているのはなぜかという問いに対する一つの答えがここに示されていることである。それを額田王個人の詩的資質に帰すのではなく、額田王歌が当時の朝廷の大陸志向の文化的嗜好を反映しているという読み方は、額田王が天皇の意を体しその立場で歌を詠む人(伊藤博は、そのような役割を負う歌人を「御言持ち歌人」と称している)であることとも整合性がある。
 つぎに、万葉集の第一期・第二期では、宮廷歌人たちは、そのそれぞれの個人的感性の表出ではなく、天皇の王権的立場・価値意識を反映する詠作を宴席で求められたということである。春秋の優劣論に一方的に決着をつけることを巧みに避けながら、最後に、自分の好みであるかのようにして、しかしおそらくは天智天皇の好みを察して、それをさらっと示して、一座をあっと言わせて、「春側も秋側も恨みっこなしの和気と哄笑が座をおおったことであろう」(『釋注』)と想像させるような雰囲気を醸成したところでこの文藝サロン的遊宴がお開きになったとすれば、額田王はこの一首によって「御言持ち歌人」としての職責を見事に果たしていると言えるだろう。
 そして、もう一点は、額田王のこの歌から〈花〉についての日本文藝史に固有な規定を引き出すことには慎重でなければならないということである。なぜなら、額田王歌の「花」は、具体的な個々の花々に即した情感とそれに基づいた或いは呼応する作歌というプロセスを経て、そこからいわば徐々に蒸留されるような仕方で抽出された〈花〉ではないからである。
 以上の論点を押さえた上で、川口論文は、先の引用箇所の少し先で、「万葉集における“花の流れ”を考えるうえでは、額田王作を異質の移入として位置づけること」を主張している。













最新の画像もっと見る

コメントを投稿