内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生命の顕現の思想 ― 日本文芸史が描いた最初の花のイメージ

2018-10-28 19:44:33 | 読游摘録

 『日本書紀』大化五年三月の条によると、父蘇我倉山田石川麻呂が讒言によって山田寺で自害に追い込まれた後、その娘で中大兄皇子妃であった造媛は、傷心の果に亡くなった。その死を甚だしく嘆き悲しむ中大兄皇子の姿を見て、家臣の野中の川原の史滿が歌二首を献じた。その第二首目が次の一首である。

本毎に 花は咲けども 何とかも 愛し妹が また咲き出来ぬ(紀114)

 「株ごとに 花は咲いているのに どうして愛しい媛だけ 咲き出てこないのだろう」(遠山美都男『天智と持統』講談社新書の訳をお借りした)という意のこの一首は、記紀歌謡の中で「花」という言葉が用いられている歌七首のうちの一首である。この一首について、川口常孝は、『万葉歌人の美学と構造』(桜楓社、1973年)の中で、次のように注解している。

「花」は「愛し妹」の相対語として用いられている。そして、「花」は、「咲く」ものとして、また、再び「咲く」ことを期待されるものとして、一首のなかの位置づけを得ているのであって、散るものとしてこれをいとおしむ感情は、まだここには生まれていない。したがって、この歌は、部立としてば挽歌であるにかかわらず、「花」は「あはれ」だとか「無常」だとかいった思想の拘束からはいまだ自由である。(10頁)

 そして、その他の記紀歌謡の「花」の用例とも合わせて、「それぞれの歌は、花が馥郁として華麗であることによって、主題の構成要素となりえている」と指摘する(同頁)。

 このように「華麗」、またときには「淡白清浄」であることが花の本来なのであって、老い、また散るべき人間の運命に対して、散っても散っても咲き出るものという、いわば生命の顕現の思想こそ、日本文芸史が描いた最初の花のイメージであったのである。(11頁)

 ところが、この花の内容は、万葉集の時代になると少し趣が変わってくる。その変化を明日の記事から何回か、川口書に依拠しながら見ていこう。












最新の画像もっと見る

コメントを投稿