内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

歴史の中の一つの言葉の旅 ― 一茎の草に乗って大海を渡る昆虫のごとくに

2017-06-23 11:20:33 | 哲学

 ベルクソンにおける哲学の方法そのものとしての dilatation について『創造的進化』に主に依拠しながら詳述した後、序論の締め括りとして、クレティアンは、読者へ一言、La joie spacieuse で自分が採った探究方法について一種の弁明を行う。そこが私にはとても興味深い。
 同書のタイトルから予想されるような西洋精神史における喜びの空間についての博捜を期待していた読者は、実際は dilatation たった一語という「狭き門」を通じてしかその問題が探究されていないのを見て、失望を覚えるかもしれない、とクレティアンは読者に語りかける。
 クレティアンは、2003年に L’intelligence du feu(Bayard, coll. « Bible et philosophie » )と題された本を上梓している。そこでは、新約聖書『ルカによる福音書』第十二章四十九節のたった一文「Πῦρ ἦλθον βαλεῖν ἐπὶ τὴν γῆν, καὶ τί θέλω εἰ ἤδη ἀνήφθη. 我は火を地に投ぜんとて来れり。此の火すでに燃えたらんには、我また何をか望まん」の解釈をめぐって西洋キリスト教精神史が辿り直されていた。
 ところが、La joie spacieuse では、一文どころか、dilatation というたったの一語の歴史を西洋精神史の中で辿ろうというのである。このような企ては問題を極小化してしまうことにはならないであろうか。
 予想されるこのような疑義に対してクレティアンは次のように応える。
 そのような疑義が生まれるのは、注意深い眼差しには、取るに足らないものに包蔵されている途方もないものが見えることを忘れているからである。そして、それは、バルザックの『ルイ・ランベール』のはじめの方に出てくる次のような大いなる教えを忘れることでもある。
 こう畳み掛けておいて、クレティアンは『ルイ・ランベール』の当該箇所をかなり長く引用している。クレティアンが一部省略している部分も含めて、その箇所を引用してみよう。

Souvent, me dit-il, en parlant de ses lectures, j’ai accompli de délicieux voyages, embarqué sur un mot dans les abîmes du passé, comme l’insecte qui posé sur quelque brin d’herbe flotte au gré d’un fleuve. Parti de la Grèce, j’arrivais à Rome et traversais l’étendue des âges modernes. Quel beau livre ne composerait-on pas en racontant la vie et les aventures d’un mot ? Sans doute il a reçu diverses impressions des événements auxquels il a servi ; selon les lieux, il a réveillé des idées différentes ; mais n’est-il pas plus grand encore à considérer sous le triple aspect de l’âme, du corps et du mouvement ? À le regarder, abstraction faite de ses fonctions, de ses effets et de ses actes, n’y a-t-il pas de quoi tomber dans un océan de réflexions ? La plupart des mots ne sont-ils pas teints de l’idée qu’ils représentent extérieurement ? (Balzac, Louis Lambert, La Comédie humaine, vol. 22, Classique Garnier, 2008, p. 101).

 語り手の回想の中で主人公ルイ・ランベールが語る若き日の読書経験の魅惑はとても印象的で示唆に富んでいる。
 読書とは、あたかも一茎の草の上に乗って大河の流れのままに旅をする昆虫のように、過去の深淵の中に一つの言葉に乗って出で立つ甘美な旅のようなものだ。ギリシャから出発して、ローマに至り、近代の幾世代を横断する。一つの言葉の生涯とその度重なる冒険を語れば、それが素晴らしい本にならないことがあろうか。一つの言葉は、それが使われるその都度の出来事から様々な印象を受け取っただろう。場所に応じて、様々に異なった考えを目覚めさせてきもした。しかし、魂と体と動きの三重の相の下に言葉を見るとき、その言葉はなおのこと偉大ではないだろうか。その機能・効果・作用の一切を考慮せずにその言葉を見るとき、省察の大海に沈潜せずにいられるだろうか。大半の言葉はそれらが外示している観念の色合いを帯びてはいないだろうか。
 そして、クレティアンはユーモアを込めて読者にこう誘いかける。

Veux-tu monter sur le brin d’herbe, ami lecteur, avec l’insecte bienveillant qui a déjà reconnu le trajet ? (Chrétien, op. cit., p. 30).

親愛なる読者よ、すでに航路を知っている気のいい昆虫と一緒に一茎の草に乗ってはくれまいか。












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