内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第四章(三十八)

2014-05-22 00:00:00 | 哲学

2. 4. 3 〈肉〉に奥行を与えるものとしての自己身体(2)

 私の身体は、己に固有の知覚の領野に対して開かれている。しかしながら、それは、ただ単に、この領野が「時間空間的に個体化された〈これ〉」(« un ceci individué spatio-temporellement », VI, p. 313)としての、つまり知覚主体としての私の身体にとって固有であるということだけを意味するのではない。私の身体は、他方で、その知覚の領野に従属してもいる。私の身体は、その領野において生まれ、己とその領野とは同じ一つの生地、つまり〈肉〉から成っているという意味においては、そこに内属しているからである(ここで通常「主体」と訳される « sujet » という言葉が、古くは「何かの下に置かれたもの」「何かに従属するもの」「何かの影響下にあるもの」という意味を有っており、今でもその意味が形容詞としての sujet には残っていることを思い出しておくことも無駄ではないであろう)。私の身体とその知覚の領野との間には、一種の円環関係がある。「〈肉〉はこの円環全体である」( « La chair est ce cycle entier », ibid.)。
 知覚主体である自己身体が己に固有の奥行を有つことで、精神がそこに住まい、この身体がまさに自己身体として形成される。この同じ自己身体が知覚世界にもたらすことは、知覚された諸事物それぞれに固有の奥行が与えられ、それらの諸事物がそれとして形成されるということである。かくして、自己身体は、〈肉〉を〈肉〉たらしめている。しかし、〈肉〉は、自己身体の生誕地であり、自己身体は、したがって、〈肉〉から独立自存しているような「主体」ではない。自己身体が〈肉〉の只中に生まれることで、〈肉〉のうちに奥行が与えられ、〈肉〉は汲み尽くしがたい意味の大地となる。自己身体を媒介としたこの〈肉〉から〈肉〉への循環性こそ、〈肉〉を自ずから意味の無尽蔵な宝庫とし、己を隠しつつ己を顕にするものとしている。奥行という次元は、知覚世界がこの肥沃な意味生成循環性へと開かれていることを知覚的に明証している次元なのである。
 〈肉〉のそれ自身に対する自己身体を媒介としたこの無窮の動的円環性という関係性は、西田における歴史的生命の世界にも見出される。歴史的形成作用が働く歴史的生命の世界においては、「我々の身体といふものも作られたものであると共に作るものである、見られるものであると共に見るものである」(全集第八巻二二〇頁)。というのも、歴史的生命の世界を歴史的形成作用が働く場となるようそれを下支えする行為的直観は、それもまた「円環的」(同巻八九頁)であり、行為的直観が開く世界においては、作るものは作られたものから生まれ、作るものは翻って作られたものを生み出す。「作られたものは作るものを作るべく作られたのであり、作られたものと云ふことそのことが、否定せられるべきものであることを含んでいるのである。併し作られたものなくして作るものと云ふものがあるのでなく、作るものは又作られたものとして作るものを作って行く」(同巻二二〇頁)。
 私たちはメルロ=ポンティのテキストの読解を通じて、西田の行為的直観が生動する世界の光景へと導かれたのである。メルロ=ポンティの〈肉〉の存在論における〈肉〉の意味生産的な動的円環性は、西田の行為的直観の世界の論理を読み解くための一つの鍵を与えてくれるのである。
 本節でここまで加えてきたメルロ=ポンティのテキストへの注釈を念頭に、西田の次の二つのテーゼを読んでみよう。「現実は現実を越えて現実に行く」(同巻二三二頁)。「世界は歴史的現在として何処までも決定せられたものでありながら、自己自身の中に自己否定を含み、自己自身を越えて現在から現在へ行くといふ所に、行為というものが成立するのである」(同巻二一七頁)。この世界が自己否定を通じて自己超越を無限に〈今〉〈ここで〉繰り返すこと、それが行為であり、その行為を担うのが自己身体である。その自己身体の知覚世界における存在性格とその行動を、私たちは、メルロ=ポンティとともに、ここまで見てきたのである。


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