内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日常的飲酒者の「合理主義的」自己弁護、あるいは飲んだくれのほろ酔い詭弁

2017-08-29 18:47:10 | 哲学

 新学期が始まってしまえば、大学で執務する時間がおのずと長くなり、大学から自宅に戻ることで一応仕事の区切りを「場所的には」つけることができるだろう。とはいえ、この九月は大学でも家でも休日返上で働かなくてはならないだろうから、朝から晩まで働きづめということにもなるだろう。一人密かにこの九月を「恐怖のブラック月間」と呼んで、恐れおののきつつ、深い溜息をついている(まだ溜息をつける暇があるだけいいか)。
 普段、終日家で仕事しているとき、つまり、哲学的思索に一日中耽っているとき、夕方になると、「今日はこの辺までにするかな」と自分で区切りをつける必要がある。そのためには、その区切り以降は仕事をしないように「工夫」しなくてはならない。いや、それでは手緩い、もうどうにも仕事ができない状態にする合理的かつ効果的な措置が必要である。
 そのために私はワインを飲む。酔えばもう仕事はできないからである。その効果は絶大である。つまり、ワインを飲むことは、私にとって、「健全な」職業生活を送るための sine qua non なのである(誰ですか、勝手に言ってれば、とあきれているのは)。
 しかし、これだけでは、仕事をしない休日にもワインを飲むことを正当化できないではないか。それゆえ、私は週日・週末関係なく、毎日仕事をする。そして、夕方になると、「さて、今日はこの辺までにするかな」と、いそいそとワインボトルの栓を抜くのである。
 つまり、私は、「合理的な」理由によって毎日ワインを飲むために日々仕事をしているようなものなのである。












最新の画像もっと見る

コメントを投稿