内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「われわれは懐疑的にならざるをえないが、絶望してはならない」― 高坂正堯『国際政治』より

2021-12-30 16:57:03 | 読游摘録

 昨日の記事で言及した高坂正堯の『国際政治 ― 恐怖と希望』(中公新書)の初版は一九六六年刊行で、著者はそのとき三十二歳。国際政治についての確固たる洞察が明晰な文体で表現されており、五十五年を経てもその輝きは失われておらず、「古典的名著」(『三酔人経綸問答』解説より)の名に恥じない。長くなるが、「絶望と希望」と題された最終節のほぼ全文を引用する。

 国際政治に直面する人びとは、しばしばこの最小限の道徳的要請と自国の利益の要請との二者択一に迫られることがある。それゆえ、国際政治に直面する人びとは懐疑的にならざるをえない。しかし、彼は絶望して、道徳的要請をかえりみないようになってはならないのである。そしてこの微妙な分れ目は、じつに大きな分れ目を作るのである。
 昔から人びとはこのジレンマに悩んできた。たとえばソ連との冷戦という困難な状況にあって、アメリカの外交を立案したジョージ・ケナンは、このジレンマを何回も味わったように思われる。彼は異なった正義の体系を持つ巨大な国家ソ連に、なんとか対抗していかなくてはならなかった。それは根本的には解決しえない対立であった。しかし、彼はその問題から逃げるわけにはいかなかったのである。だから彼はできることをしながら、すぐにはできないことが、いつかはできるようになることを希望したのであった。
 そのような信念の持主であった彼は、医師であったロシアの作家チェーホフ(一八六〇~一九〇四)を深く愛した。彼は、チェーホフが解きがたい問題を解かざるをえない状況に置かれて悩む人間を描いているのに、共感を感じたのである。彼はとくに短篇『往診中の一事件』を好んだ。この物語の主人公の医師は、ある工場に往診に出かける。患者はそのエ場主の娘で、彼女は陰気な工場の雰囲気のために神経症的心臓病にかかっている。そしてそれは治療しえない病気である。医師はいかに自分の力がかぎられたものであるかを感じざるをえない。
 同様のことは外交の世界でもおこる。ケナンは『外交五十年』のなかで、歴史家バターフィールドの言葉を引いてつぎのように述べている。

 人類の大きな闘争の背後には、恐るべき人間的苦悩があるのであり、これこそ歴史の真実なのである。現代の人びとはかかる苦悩を理解しないし、その真実性を認めようとしない。いつも人びとは、人間の知恵をもってしても、解きほどくことのできないような恐るべき結び目があったことを、のちになってほんとうに理解するようになるのである。

 しかし、希望することをやめてはならない。じっさい、たとえ合理的な根拠がなくとも、人間は希望することをやめない。『往診中の一事件』の医師は、なんにもしてやれないことを知りながら、求めに応じてその家に一泊し、眠れないその娘に話してやる。

 あなたの不眠症は尊敬すべき不眠症です。なにはともあれ、よい徴候です。まったくのところ、私たちの両親はいま私たちがしているような会話をすることなどは思いもよらなかったのですからね。私たちの両親は、夜はべつに話もせず、ぐっすりと眠ったものです。ところが私たち今の世代の人間は、ろくに眠ることもできず、煩悶し、おしゃべりをし、たえず自分たちが正しいか、正しくないかを決めようとしています。私たちの子供や孫の時代になったら、この問題――つまり正しいか否かという問題はもう解決がついていることでしょう。

 戦争はおそらく不治の病であるかもしれない。しかし、われわれはそれを治療するために努力しつづけなくてはならないのである。つまり、われわれは懐疑的にならざるをえないが、絶望してはならない。それは医師と外交官と、そして人間のつとめなのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿