内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

問題解決としての知覚、そして学知 ― ジルベール・シモンドンを読む(33)

2016-03-23 06:12:10 | 哲学

 今日も一文だけです。まず直訳してみます。

La perception, puis la science continuent à résoudre cette problématique, non pas seulement par l’invention des cadres spatio-temporels, mais par la constitution de la notion d’objet, qui devient source des gradients primitifs et les ordonne entre eux selon un monde.

知覚、そして学知は、この問題(性)を解決し続けるが、それはただ時空の枠組みを創出することによってではなく、対象という概念を構成することによってである。この概念が原初的な傾度の「源泉」となり、傾度間に一つの「世界」としての秩序を与える。

 もし教室で先生に指されてこんな訳を読み上げたら、「それで、何が言いたいのここで?」と先生に聞かれて答えに窮するような訳ですね。そのときの学生のような気持ちで自信なげにぼそぼそと先生のこの問いに答えてみます。
 「この問題(性)」(« cette problématique »)と言っているのですから、何かそれまでに言われている内容を指しているはずです。それは文脈からして昨日読んだ直前の文の中にあると考えられます。ところが、問題という形ではっきりと示されているものはその中にありません。いったい何が問題だと言うのでしょう。私はこう考えてみました。
 もしある生体がその置かれた環境の中で受けた刺激に対して常に一定の方向と程度で反応するというだけのことなら、それはその生体の性質ではあっても問題ではないはずです。問題という以上、何か解決すべきことが課題として与えられている状態のはずです。ということは、まだある反応の仕方が性質と言えるほどな安定性を獲得する前の状態、生体とその世界との分節化のはじまり、言い換えれば、ある生体が個体化するその最初の契機が発生した状態が「問題(性)」だと言われているではないでしょうか。
 考える主体がすでに与えられているところから個体における知覚の誕生、そして知の集成としての学知の形成を捉えるのではなくて、むしろ、〈問題の解決を図る〉という行動そのものがどこから起こってくるのかというように問題を立てようとしているのではないでしょうか。言い換えれば、このタイプの行動の発生そのものが生体としての個体の個体化のはじまりだと考えられているのではないでしょうか。
 或る物が対象として或る形をもって生体に対して立ち現れるということそのことがすでに一つの問題解決なのであり、その知覚という解決には、すでに対象間の区別もある仕方で成り立っていなければならず、それら対象間の関係が一つの世界に他ならなない。学知とは、その世界像をより客観的・斉一的・組織的に形成することだ。シモンドンはこんなことが言いたかったんじゃないのかなあって思ったんですけど...


















































 


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