内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

カール・クラウスの「言葉の実習(Sprachlehre)」、あるいは言葉への敬虔さ

2019-07-22 23:17:01 | 哲学

 昨日取り上げた古田徹也の『言葉の魂の哲学』に、カール・クラウスが『炬火』誌上に長年に渡って発表し続けた論考「言葉の実習(Sprachlehre)」についての詳しい説明がある。「言葉の実習」とは、「個々の言葉の微妙なニュアンスの違いを比較や例示などを通して具体的に浮き彫りにしていく」ことである。それは面倒な営みであり、日常生活の中では余計なことのように思われる。それでも敢えてその面倒な実習を引き受けるのは、クラウスによれば、責任の問題である。クラウスにとって、「言葉を選び取る責任」は、「行われるべきこととしては最も重要な責任」である。
 クラウスはなぜそう考えたか。この問いに対する詳細な考察は本書に譲り(ご興味を持たれた方は是非この良書を読まれたし)、昨年刊行されたフランス語で初めてのカール・クラウス伝である Jacques Le Rider, Karl KRAUS. Phare et Brûlot de la modernité viennoise, Éditions du Seuil では「言語の実習」についてどう説明しているか覗いてみよう。

Les leçons de langue et de style de Karl Kraus sont autant de professions de foi. Elles n’ont pas pour objectif la construction d’un système théorique ou la rédaction d’un manuel didactique, et elles ne reposent sur aucun dogme, mais au contraire sur une mise en question de toutes les idées reçues sur la langue. Les leçons de Karl Kraus, maître de langue allemande s’adressant aux germanophones, ont pour intention de mettre en doute les fausses évidences et de rendre ceux qui parlent allemand comme ils respirent capables de s’étonner des mots qui sortent de leur bouche et de leur plume, et d’y réfléchir avant de parler et d’écrire (p. 411-412).

 「言語の実習」とは、言語理論の構築でも教科書作りでもなく、何らかの教義に基づくものでもなく、言語についてのあらゆる既成概念を疑うことである。人々が自明だと思い込んでいることを問い直し、自分たちの口からあるいはペン先から(あるいはキーボードを叩くことで)出て来る言葉に驚き、話す前あるいは書く前に、それらの言葉を吟味することである。
 このような言語に対するどこまでも注意深い態度は、単にクラウスの個人的な嗜好から生まれたものではない。それは深く時代と切り結んでいる。この点、古田書ももちろん詳細に考察している。

Face à la crise morale, autant qu’économique et politique, dans laquelle sont plongés Vienne, l’Autriche et tout le monde allemand, et constatant l’insuffisance des politiques culturelles mises en œuvre, même à « Vienne la rouge », Karl Kraus entreprend non seulement de « réparer » la langue outragée par tous les mésusages que lui infligent ses contemporains, mais aussi de ramener le processus de civilisation dans la voie dont il s’est écarté. Pour Kraus, la culture commence par l’amour et le respect de la langue, par une sorte de piété du bon usage, par le goût des mots, du bien parler et du bien écrire (p. 412).

 1920年代にウィーンが陥っていた道徳的危機、並びに経済的・政治的危機に直面して、クラウスは、そこに見られる誤った言葉遣いの蔓延(常套句の濫用、紋切り型の拡散)を正そうとしたばかりでなく、逸脱した文明をその正道に戻そうと試みた。クラウスにとって、文化は、言語への敬愛、その正しい使い方への敬虔な態度、言葉選び・良い話し方・良い書き方へのセンスから始まるものであった。
 この「言葉の実習」を日本語において私なりに実践していきたいと、上掲二書を読んで強く思った。












最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
吟味は大切だけれども (funkytrain)
2019-07-23 11:40:16
こんにちは。

言語のleçons、と。
「話す前あるいは書く前に、それらの言葉を吟味する」のが大切である、と。そして「誤った言葉遣い」の修正、ということ。これはあたかもどこかに「正しい言葉遣い」が存在するかのように響いて来るけれども、それはさしあたり横に置いておこう。

なぜこのような小学校の道徳の教科書に出てきそうなことが殊更いま問題になるのか、状況を測りかねるけれども、重要なことは、すべての発話者が依拠するラング(言語)は個人によって動かされるほど脆弱ではないだろう、ということである。

発話する者がいかに言葉を吟味しようとも、それを受け取る側がその吟味をスルーするということが日常において毎日発生している。ラングは個々人の努力とは無関係に非人称的な動きとして日々刻々と変化するものではなかったか。だからこそハイデガーが人間を現存在と名づけたところで、だれも人間を現存在とは言わないのであり、彼の言う「根本語」などというものも捏造でしかないのではなかったか?

今や「やばい」は日本語において「肯定」をも意味するようになってきており、それが正しくないと言っても日本語における「やばい」の意味が変わってゆくことを誰にも止められはしない。

常套句や紋切型なしに、そもそも発話などできないのではないか、というのが近代文学の出発でさえあろう。(フローベール、カフカ、ニーチェ等々)

「クラウスにとって、文化は、言語への敬愛、その正しい使い方への敬虔な態度、言葉選び・良い話し方・良い書き方へのセンスから始まるもの」であったならば、クラウスの考える文化はひどく退屈きわまりないものとなったであろうことは想像に難くない。

・・・・と、あらまし以上のようなことを思わせていただいたのでした。
返信する
連投失礼します (funkytrain)
2019-07-23 12:10:27
そもそも人はみずからの言葉を、日本語なら日本語を、ドイツ語ならドイツ語を、そのすべてを一挙に目にすることはできない。日本語の全貌をその視野におさめた者など歴史上ひとりもいない。それは国語が日々揺れ動いているからであって、その揺れ動きの中でわれわれは生きているからである。
しかもその揺れ動きを人は制御できない。むしろその国語の揺れ動きのほうが人間を支配していると言ってもよいのではないか。その全貌が見えないものの「正しさ」を人はどうやって見抜けばいいというのか?


蓮實重彦『反日本語論』(ちくま学芸文庫)から引用する。

「言葉が真に言葉として機能している瞬間は、”正しさ”とか”美しさ”は言語的な場には浮上してこない」p256

「言葉は、役人はいうに及ばず、言語学者や文学者の視線がとうてい捉えることの不可能な逸脱や畸形化を日々生きつつあるのだ」p256

「言葉というこの錯綜した矛盾と葛藤の場にとって、言語学も文学も、その活動のほんの一側面しか明らかにしえないのだという認識は失ってはなるまい」p257

美しく正しい日本語など、いまだかつて存在したためしがあるのだろうか?

・・・・と、まあこういうことも感じました。
返信する

コメントを投稿