内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「敦盛最期」を読みながら、日本人の心の形を思う

2014-10-22 19:50:42 | 講義の余白から

 先週まではこの季節にしては例外的に暖かく、気持ちのよい天気だったし、昨日までは気温もそれほど下がることなく、外出時も長袖のシャツにジャッケト一枚で十分だったが、今朝外気は七度まで下がり、日中も十一度までしか上がらず、昨日までのような格好では震え上がってしまうほどの寒さであった。空も一日雲に覆われたまま。
 今週末、冬時間に切り替わる。冬の到来である。ストラスブールはパリに比べると日没時間が二十分以上早い。今日の日没が午後六時二十八分。これが冬時間に切り替わって最初の日である今度の日曜日には午後五時二十分になってしまう。もちろん日の出も時計の上では一時間早くなるわけだが、生活リズムは時計に合わせて刻まれるのが普通だから、来週からは夕方五時を過ぎるともう日没が迫る中を帰宅することになる。フランス人でもこの冬時間への切り替えによる心理的影響を嫌う人は少なくない。私ももう慣れたとはいえ、やはり人工的なこの時計の調整によって何か気分の上でも冬モードに切り替わってしまうのを感じないわけにはいかない。
 大学は今週末から一週間、万聖節の休暇に入るから、その間大学に行くことはまずないが、冬の到来を噛みしめながら、月末から十一月一日にかけてのCEEJAでの国際シンポジウムでの発表の準備のために家に篭もることになるだろう。
 今日の中世文学史で読んだ「敦盛最期」には学生たちもちょっとグッと来たようであった。もっともあの箇所を読んで何も感じないほど鈍感な感性を持つことのほうがおよそ心ある人間には難しいかもしれない。原文と仏訳を対照して見られるように、テキストをアレンジして印刷したものを渡し、パワーポイントでも同様に対訳形式で表示しながら、ゆっくりと朗読した。ところどころ立ち止まって語彙の解説を挟みながら、学生たちに仏訳をたよりに原文の朗読を追えるようにした。
 今、日本の学校ではどれほど古典がちゃんと教室で読まれているのであろうか。「国際人」を養成するためと称して、碌でもない「ネイティヴ教師」を雇用する金と時間があるのなら、小学校一年から、いや幼稚園から、『平家物語』のような、日本人の心の形そのものであるような古典中の古典を、しっかり時間をかけて音読し、ゆっくりと噛みしめるように味合わせることの方が百倍も千倍も大切だと私は思う。そのようにして心を養われなかった日本人が立派な国際人などなれるはずがないからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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