内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「問題提起的で近代の本質に迫る」には、天皇機関説および天皇機関説事件は言及するに値しないのか(下)

2019-03-27 00:58:20 | 講義の余白から

 驚いたことに、山川出版社から2016年に刊行された『大学の日本史 教養から考える歴史へ』(全四巻)には、近代に一冊(294頁)まるごと充てられているにもかかわらず、ただの一行も天皇機関説および天皇機関説事件についての記述がない。もちろん美濃部達吉の名前もどこにも出てこない。ところが、現日本国首相の母方の祖父であるA級戦犯容疑者だった岸信介には計十頁も割かれている。
 当該の年代を対象とした16章「満州国」と17章「近衛文麿と昭和の戦争」は、季武嘉也という創価大学文学部教授が執筆を担当している。岸信介のことが全体のバランスからすればかなり目につく仕方で、しかも写真入りで記述されている19章も同じ筆者である。奇妙なことに、16章にも17章にも、1931年以降について、だいたいどの年についても何らかの記述があるのに、1935年についてだけ、何もないのである。あたかもその年には言及すべき出来事が何も起こらなかったかのように。
 山川出版社のサイトの本シリーズの謳い文句は、「高校の日本史を卒業し、本格的に歴史を学ぶためのテキスト。様々な素材を駆使して時代を探り、どのように歴史像をつむぐのか、その醍醐味にふれる」となっている。近代以前の三冊については、確かに、その謳い文句に恥じないだけの内容を備えていると言ってもいいかも知れない。
 ということは、ちょっと皮肉な言い方をすれば、日本近代史において、天皇機関説および天皇機関説事件など、高校までに学んでおくべきことで、本格的に歴史を学ぶためには、今更わざわざ言及するまでもない「瑣末な」既習項目である、ということなのだろうか。
 本書の「はじめに」の冒頭にはこうある。

 本書は、放送大学の日本近代史および日本近現代史の授業で使用した印刷教材『近代日本と国際社会』(放送大学教育振興会、二〇〇四年)、『日本近現代史』(同、二〇〇九年)をもとに、章を二〇に整理し、各章を大幅に加筆修正したものである。
 日本近代史に関する通史は数多あるが、大学レベルのテキストであるならば、概説的な歴史叙述ではなく、問題提起的で近代の本質に迫る内容構成であることが望ましいと思われる。

 同書の帯には、「本格的に歴史を学びたい人向けの日本史教科書」と謳ってある。ということは、「問題提起的に近代の本質に迫る」ためには、天皇機関説および天皇機関説事件はまったく言及するに値しないと著者たちは判断したということだろうか。
 この完全な無視をどう理解すればいいのだろう。類書で概説されているような「常識的な」ことは、あえて切り落とすことで、新たな視角から問題提起を試みた、ということだろうか。
 百歩譲って、その企画の意図は認めるとしよう。それにしても、天皇機関説および天皇機関説事件についての記述の完全な欠落と現総理大臣の母方の祖父である岸信介についてのあからさまに弁護的な記述とは、そこに何らかの政治的「忖度」が働いていると疑わせるに十分である、と言えば、人は私の病的なまでの猜疑心を憫笑するであろうか。
 ここまで書いてきたことが、度外れな杞憂、根拠なき懐疑、的はずれな非難であることを、私は、これからの日本のために、切に願う。












最新の画像もっと見る

コメントを投稿