内的自己対話-川の畔のささめごと

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寛容再論(二)寛容の騎手(?)セバスチャン・カステリヨンの身命を賭したカルヴァン批判

2023-04-24 11:53:21 | 哲学

 セネカの『寛容について』(De Clementina)の翻刻注解を若き日に出版し、新教徒たちに対して苛烈な弾圧を繰り返す旧教会側に属するユマニストとしてのその内側から権力者たちに「寛容」を求めたカルヴァンが、後年新教徒たちの牙城を築いたジュネーブにおいて、情け容赦のない粛正に継ぐ粛正を繰り返し、血も涙もない不寛容の「権化」となってしまったのは、「カルヴァンの悲劇である以上に人間の悲劇といってもよいでしょう」と渡辺一夫は『ヒューマニズム考』のなかで慨嘆している。
 その不寛容の極みとも言えるのが、一五五三年十月二十七日の新教徒学者ミッシェル・セルヴェ(1511‐1553)の火刑である。旧教会側の手によって投獄されたセルヴェは、判決の結果、火刑に処せられることになるが、同情者の手引きで脱獄に成功する。脱獄したセルヴェはイタリアへの亡命を企図し、ジュネーブ経由の道を選ぶ。ところが、そのジュネーブで逮捕・投獄されてしまう。数十日の不衛生な牢獄生活と苛酷な訊問や論争ののち、カルヴァンの命により、「異端者」として火刑に処せられてしまった。
 度重なる粛正のあとで起こったミッシェル・セルヴェ事件は、カルヴァンの陣営にも不平と非難を巻き起こした。この危機的情況に直面して、カルヴァンは『真の信仰を維持するための宣言』(Déclaration pour maintenir la vrai foi)を発表し、自己の判断と行動を弁護し、人々の理解と反省を求める。
 これに対して敢然と批判の矢を放ったのがセバスチャン・カステリヨン(1515‐1563)である。このとき、カステリヨンは粛正運動の犠牲となってジュネーブから追放されてスイスのバーゼルに逃れていた。
 カステリヨンは、リヨンで新しい時代の洗礼を受け、早くから新教徒になって、一五四〇年ごろからカルヴァンと行動を共にし、一五四二年からは、ジュネーブでの新教会建設に尽力した。
 カステリヨンは、カルヴァンの狂気の沙汰と言ってもよいミッシェル・セルヴェの火刑をバーゼルで座視することができず、Contra Libellum Calvini (Contre le libellé de Calvin) を急ぎ執筆する。
 この苛烈なカルヴァン批判書は、カルヴァンの著作からの引用、発言・行動を事細かに列挙した上で、カルヴァンに向かってそのそれぞれに反駁を加えるという体裁を取っている。その筆鋒は鋭く、カルヴァンの言説・行動の矛盾と不整合性を論理的に剔抉する。
 現代仏語訳版(Sébastien Castellion, Contre le libellé de Calvin, traduit par Etienne Barilier, Édition Zoé, 1998)の裏表紙の紹介文には、« C’est un puissant manifeste en faveur de la tolérance et de la justice. » とあるが、ラテン語原文で動詞 tolerare あるいはその派生語が用いられるのは、カルヴァンの立場を説明する文脈に限られており、許すべき罪や過ちを許さず、許されざる悪徳を放置するという意味合いでのみ使われている。要するに、宗教・信仰の多様性を肯定する態度としての今日的な「寛容」とは何の関係もない。
 現代仏語訳で肯定的な意味で tolérance (あるいはその派生語)が使われている箇所は、ラテン語原文では clementia, mansuetudo, mitia, benigne などで、一言で言えば、穏やかな、温和な、寛大な態度、ということである。 
 しかし、このことはカステリヨンが単なる穏健派であったことを意味しない。渡辺一夫は、カステリヨンがセルヴェ事件の翌年に偽名で出版した『異端者論・これを迫害断罪すべきか』のラテン語版の序文についてこう説明している。

カステリヨンは、異端者に対する理解と寛容とを説きつつ、かりに、自ら「正統」であるという自信のある人々がいて、異端者を罰しなければならないことになっても、宗教的な意味の戒告・破門にかぎるべきであって、現世の司直が下すような刑罰、追放や死刑をもってすべきではないと力説しました。(137頁)

 続いて、おそらくカステリヨン自身によるフランス語版の序文から次の文章を引用している。

「異端の嫌疑をかけて、ひとりの立派な人間を殺すよりも、百人、いや、千人の異端者を生かしておいたほうがよい。……信仰も宗教も、儀典や本質的でないその他の事柄のなかにあるわけではけっしてないし、曖昧で疑義の多い教理のなかにあるのでもけっしてない。迫害者は、迫害される者と同じく、誤りを犯すことがあるものであるから。」(137‐138頁)

 しかし、カステリヨンのこの身命を賭した批判がカルヴァンに聴かれることはなかった。『異端者論』出版後、カルヴァンから様々な弾圧を受け続けたカステリヨンは、不遇のうちに1563年にこの世を去る。上掲のラテン語で書かれたカルヴァン批判がオランダで印刷されたのはその死からほぼ半世紀後の1612年のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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