内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

痛みの瞬間と苦しみの持続 ― 受苦の現象学序説(11)

2019-05-22 14:15:20 | 哲学

 痛みと苦しみの質的な差異について、ラヴェルはさらに考察を続ける。
 痛みは、身体に結び付けられているまさにそれゆえに、瞬間に結び付けられている。たとえ痛みが持続する場合でも、そこには断続があり、やわらぐときと激しくなるときとがあり、一種のリズムがある。痛みが鋭くなるとき、それは時間の持続の中へのその都度の突入である。痛みが止むとき、安堵し、期待に胸が膨らみ、まだ恐る恐るではあり、不確かではあるが、喜びも感じる。まだ慄きを感じもするが、もはやそこに痛みの性格はない。痛みがまた再発するかも知れないという恐れはあるにしても、痛みそのものを想像力で再生することはできない。
 痛みとは反対に、苦しみは、つねに時間と結び付けられている。苦しみの中で、苦しみは、その都度の現在においてつねにそれとして感得されている。苦しみは、つねに瞬間を放棄し、持続を満たそうとする。外部からやってくる原因によって更新される痛みとは違って、苦しみは、私たち自身の中にその糧を見出す。苦しみは、私たちが生み出す表象によっていわば栄養摂取する。
 苦しみは、すでにないもの、あるいは、まだないものへと向かう。自己正当化・自己保持のために絶えず賦活される記憶へと向かう。不確かな未来へも向かう。しかし、未来に想像される諸々の可能性の中に苦しみが見出すのは、苦悶を増殖させる手立てである。
 痛みを追い払おうとするのが意識の常態であるとしても、苦しみについては同じようには言えない。確かに、意識は、苦しむことを積極的に求めてはいないだろう。しかし、矛盾しているようだが、苦しみは一種の熱傷であり、内的な炎である。苦しみはその炎を絶やさないように新しい糧を自ら調達しなければならない。苦しみは、私の意識が完全な不活性状態になれば、存在しないであろう。私は絶えず苦しみに同意し、それを深めさえしなくてはならない。
 痛みは、体の一部にしか関わらない。ところが、苦しみにおいては、私の全存在が賭けられている。苦しみが収まったときでも、苦しみは私の人生全体に浸透し、それを変える。現実に、苦しみは、私の生きる持続を満たすだけでなく、持続そのものを超えていく。苦しみは、私の人生の一部にしか関わらないように見える。しかし、その名に値する苦しみは、私たちの存在の恒常的な状態を表現しているのであって、私たちの存在の本質にまで浸透している。













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