内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「種の論理」の批判的考察(1)

2013-09-24 01:06:00 | 哲学

 今日(23日月曜)は、先週に学長名で緊急召集がかかっていた学部責任者会議に出席。今年の2月に、学部長が過労のために倒れ、緊急入院、数ヶ月の自宅療養を要すとの診断を受け、本来この10月までだった任期満了を待たずに、入院数週間後には学部長職を辞し、その後学科長代理が任務を遂行していたが、先週行われた新学部長選には誰も立候補者がおらず、新学年に入っても学部長不在という異常事態に陥っていた。このままだと1年間学部外部の人間が学部長を代行することになるという前代未聞の、学部としては恥辱とも言える危機的状況にあった。今日の会議で、ようやく1人立候補者があることが学長から報告され、同席していたその候補者自身から立候補に至った経緯の説明と、それが苦渋の決断だったことが吐露された。当然だと思う。今、単に私が所属する学部だけでなく、大学全体、ひいてはフランスの大学教育が危機的な状況に追い込まれている時に、誰が好き好んで自分の教育と研究を犠牲にして、大学行政に関わりたいと思うだろうか。それだけに彼女の勇気ある決断には心から拍手を送りたい。もちろんそれは出席者全員の気持ちでもあった。それだけに彼女をサポートしていこうという空気はできているとも言える。

 さて、アルザスでの発表も今週土曜日に迫ってきていながら、講義の準備等に追われ、発表の中で提起する問題について集中して考える時間が取れないままでいるが、このブログの記事として発表原稿に若干手を加えたものを投稿することによって僅かな時間でも考え続けたい。今日から4回に分けて少しずつ分載していく。
 発表の中心になるこの節では、5つの論点について、田辺の「種の論理」を批判的に検討する。参照するテキストは、「社会存在の論理―哲学的社会学試論」(1934-1935年)「種の論理と世界図式―絶対媒介の哲学への途」(1935年)「種の論理の意味を明にす」(1937年)の3論文に限定する。

 1/ 〈国家〉概念の両義性
 これが「種の論理」のいわばアキレス腱である。「種の論理」においては、種である個別国家が類としての〈国家〉へと概念として高次化されるという弁証法的論理の手続きが、民族国家という歴史性・特殊性・有限性・相対性によって規定される現実態が本来実体性のない「人類的国家」の普遍性・一般性・無限性・絶対性を事実的に簒奪する手段として機能している。しかし、すでにこれまでの記事で繰り返してきたことだが、このような論理的逸脱は、絶対媒介の論理に従うかぎり、けっして許されることではない。いかなる国家も、それが「人類的国家」であれ、それは個人の自由なる決断によって媒介され、その個人が帰属するところの現実の種的国家に対してその個人が対立することが論理的に確保されねばならず、それができないのなら、そもそも絶対媒介の弁証法など成立しえない。いかなる国家もその相対性と有限性を解消することは論理的にありえない。〈種〉が〈類〉に転化するは、どのような弁証法的手続きを経ても、ソフィスト的詐術以外のなにものでもない。

 2/ 国家の強制力の合理的根拠
 家永三郎によれば、田辺においては「種の論理」の国家的存在論への発展は、「個人に対する強制力の合理的根拠を探ろうとして導き出されたものであるが、それは消極的に個人に対する強制を肯定する根拠を明らかにするにとどまらず、積極的に個人よりも論理的に高次元に位置する国家の相対的絶対性の哲学的意味付けにまで高められた」が、同じく国家の強制力の根拠を問いながらも、「むしろ国家の強制力の限界を画定する方向に進んだ国家哲学」もあったことからして、田辺の取った方向は「決して一義的な論理的必然の道ではなかった」のである。「種の論理」にこのもうひとつの方向性は論理的に潜在しているかどうか。もちろんそう考えるからこそ、「種の論理」は今日まさに再検討に値するというのが私の立場であることは、すでに9月11日の記事から4日間にわたって述べた。この意味で「種の論理」には両義性があるが、田辺自身が主張する絶対媒介の論理に従うかぎり、田辺のとった途は論理的に誤っていると言わざるをえない。しかし、同時にまさに同じ理由で、田辺自身の論理に従って「種の論理」のもう一つの方向性を打ち出すことも可能でなければならない。


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