内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日々の哲学のかたち(2)― 予備的考察

2022-05-29 23:59:59 | 哲学

 今日から昨日紹介したグザビエ・パヴィの本をぼちぼちと読んでいくつもりだったのですが、exercice spirituel って「そもそもなんなの?」という問いをお持ちの方もいらっしゃることでしょう。実は、本書全体がこの問いの答えになっているので、それを簡単に一言にまとめるのは難しいのです。
 でも、そういってしまっては取り付く島もないことになってしまいますので、理解のための補助線として、拙ブログで exercice spirituel を取り上げている記事をお読みいただければ幸いです。それらの記事を探すには、拙ブログのどのページでもかまいませんので、下方右側にある検索エンジンに exercice spirituel と入力してください。この言葉が使われている記事を網羅的に通読することができます。特に2013年7月30日から8月3日までの記事をお読みいただければ、本書読解のための予備知識としては十分であろうかと思われます。
 今日の記事では、それらの記事と重なるところもありますが、読解のための予備的考察として、以下の三点を申し上げておきたいと思います。
 第一点目は、私自身、exercice spirituel をどう日本語に訳せばよいのか、いまだに答えを出せずにいるということです。例えば、「精神的練習(訓練)」と辞書に載っている言葉をベタに貼り付けただけでは何のことかよくわかりません。それどころか、いらぬ誤解や先入観を与えてしまいかねません。「精神的」は「身体的」に対立しているとも取られかねませんが、exercice spirituel においてはその逆であり、両者の関係はむしろ相補的なのです。一般的な用法として、「練習」は「本番」「実践」「試合」「実戦」などの対語として使われることが多いですが、ここではむしろ「実践」に近いのです。ただ一度きり実行すればよいことではなく、一挙に目的を達することはありえず、日々繰り返し行われ、いくつもの階梯を経つつ持続的に実践されるべきことであり、その過程において、やり直しを迫られることもあります。
 第二点目は、この表現を提唱したピエール・アド自身、それに満足しているわけではなく、spirituel という言葉がどうしても引き起こしてしまう宗教的な含意について再三注意を促していることです。アドそしてパヴィがこの表現を使うとき、それはいかなる宗教からも独立した、それ自体で実行可能な哲学的実践、言い換えれば、生き方そのものとしての哲学のことです。ですから、イグナチオ・デ・ロヨラによって始められたイエズス会の霊性修行 exercitia spiritualia とははっきりと区別されなくてはなりません。
 第三点目は、ここまで exercice spirituel と単数形を用いてきましたが、現実の実践としては多種多様な形で為され、したがって、exercices spirituels と複数形で表記すべきだということです。実際、アドもパヴィもつねに複数形を用いているのです。私たちがこれから読もうとしているこのアンソロジーは、古代から現代にまで至るその多様な実践の形の歴史なのです。より具体的に言えば、実践者の言説あるいはその実践の諸形態についての同時代の証言をテーマごとに時系列に沿って編集し、それぞれのテーマの解説を導入として各章の冒頭に置き、それぞれのテキストへの注解を章中に織り込むことででき上がっているのがこのアンソロジーなのです。
 テーマそのものである根本語を日本語にどう訳すかという問いの答えは留保したまま本書を読みはじめるのはいかにも居心地がよくありませんが、余計な先入観を与えないためにはその方がよいと判断しました。読みはじめるにあたって、exercices spirituels とは、日々の生き方そのものとしての哲学のことであり、その形は多様でありうるということだけを押さえておきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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