内的自己対話-川の畔のささめごと

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「離脱・放下」攷(三)― 神に酔える中世女性神秘家たち(二)

2015-03-31 12:14:45 | 哲学

 十二世紀から十四世紀にかけて、西洋中世の女性神秘家たちは、その活動・著作・書簡等によって、西洋キリスト教史に不滅の刻印を残したが、それ以後の時代になると、彼女たちの神秘思想の多くは、幾人かの神秘家に深い影響を及ぼしたということはあったにしても、その著作の大半は数世紀に渡って忘れ去られてしまい、キリスト教思想研究の中でまともに取り上げられるようになったのは二十世紀に入ってからのことであり、彼女たちの著作の中には戦後になってようやく最初の信頼できる校訂版が出版されたものさえある。そして、この「女性キリスト教徒たちの失われた歴史」(« l’histoire perdue de la chrétienté féminine » (Voir Femmes troubadours de Dieu, p. 214)が、中世以降の男性優位・知性偏重のキリスト教史を裏側から照射している。
 この「女性キリスト教徒たちの失われた歴史」を辿り直すことによって、私たちは、少なくとも、次の三つのテーマを、宗教・哲学・文学に跨る問題として立てることができる。第一に、現存在の様態としての「男性」と「女性」という問題(それぞれ「おとこせい」「おんなせい」と読むことで、性別としての男性・女性と区別し、かつ喧しい現代のジェンダー論とも一線を画すことにする)。第二に、第一の問題と不可分な仕方で提起される、知性・理性と感性・想像力との対立という問題(前者を「男性」に、後者を「女性」に配当することで形成された「分水嶺」が、中世から近代にかけての西洋思想史の山脈を貫いている)。第三に、文学と宗教における〈愛〉のモデルという問題(この問題は、中世に関しては、宮廷風恋愛詩に見られる既婚の高貴なる婦人に対する若き騎士の服従的・献身的愛というモデルが、ベギン会の女性神秘家たちによって、永遠なる神の〈愛〉の本質形象に、いわば「錬金術的操作」(ibid.)によって、変容される過程という問題として提起される)。
 これらの三重の問題群の中にエックハルトの「男性的な」知性優位の思弁的神秘主義を位置づけることで、その特異性を西洋キリスト教史の枠の中でさらに明確化することができるだろう。序に言えば、このブログでも以前に書いたことだが、私は、エックハルトの神秘主義を禅仏教に近づけて読む、いわゆる東西比較思想的アプローチに対してきわめて懐疑的である。なぜなら、そのようなアプローチの多くは、それぞれの思弁の特異性を希釈することにしかならず、その結果として、それぞれの思考の衝撃力を減衰させることにしかならないからだ。あるいは、それぞれの一番の難所を、他方の語彙を借りて言い換えただけで、実のところは何も説明していないに等しいような循環的言説は、思考の怠慢でしかない。
 このようなパースペクティヴの中で、とりわけ示唆的なのは、エックハルトがストラスブールに滞在した十年余りは、「南ドイツおよびライン河流域地方の諸修道院、ことに女子修道院と、民衆信徒の霊的生活を指導する総監督」(『上田閑照集』第七巻『マイスター・エックハルト』、183頁)としての教導が主たる使命であったにもかかわらず、その説教活動を通じてむしろエックハルトのほうがベギン会の女性たちから影響を受け、独自の神秘主義思想を、当時の現地語である中高ドイツ語によって展開していくことになり、それが後年異端の嫌疑を教皇庁からかけられる誘因の一つにもなっていることである。
 エックハルトの神秘主義を「女性」の観点から読み直すとき、以下に引用するような西谷啓治によるエックハルトのドイツ神秘主義の中での位置づけ方(それ自体は、当時の日本(一九四〇年)の神秘主義研究の水準からして、卓越していると思うが)を再検討する必要があることがわかる。

獨逸中世の女流神秘家達の像は、或は豫言者の如く荘重に、或は透視者の如く幻像に滿ち、或は詩人の如く籠れる熱情を以て、或は肉の氣なき靈そのものの如く清純に、それぞれ個性的に美しい風格を示してゐる。そして彼等を通じて、ベルナールによつて高揚された情感の神秘主義、即ち基督を花婿とする魂の婚姻、受苦の基督への同苦等が、殆んど惑溺の域にまで昂まつたのである。然るに、吾々が婦人神秘主義者からエックハルトに移ると雰圍氣が全く一變する。一ニの例外を除いて、すべての女流神秘家の世界を息苦しきまで充してゐた幻覚や幻想、禁欲の戰、殆んど變態心理と境を接する如き、受難の基督への同苦、花婿基督への思慕、幼児基督への溺愛、恍惚の興奮と寂寥感との絶え間なき交替などは全く影をひそめる。時として性的なる匂をすら感じさせる情感の陶酔や想像力の異常な昂進の代りに、そこでは明澄にして鋭利な、全く醒め切つた宗教的知性の思辨が支配してゐる。神と魂との内奥をあくまでも深く切り開き、そこに豁然と打開される神的「砂漠」を見出したエックハルトは、その知性の透徹にして大膽なると精神の高邁濶達なることに於て、西洋の全精神史のうちでも最も男性的なる思想家の一人に數へられ得る。[中略] 彼の神秘主義は普通に人が神秘主義の特色と見なす如き、そして彼以前の女流神秘家達に最も顕著に現はれた如き、宗教的情感の過度な横溢とは凡そ正反對の性格をもつている(「獨逸神秘主義」『西谷啓治著作集』第七巻、156-157頁)。

西洋中世の女性神秘家たちの今日における再発見と彼女たちの神秘思想への関心の再生は、「眠れる森の美女の目覚めの時」(Femmes troubadours de Dieu, op. cit., p. 214)が到来したことを意味している。これまでの数世紀に渡るその長い眠りは、一方では、西洋中世に蔓延していた「女嫌い・女性蔑視」を、他方では、スコラ学者たちが、知性(男性によって象徴される)に優位を置き、想像力と感覚(女性によって象徴される)を劣った力能と見なしていたことをその主な理由とする(ibid.)。













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