内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

自発的・自律的思考へと学生たちを「唆す」手段としての講義

2020-04-22 22:11:26 | 講義の余白から

 自分がそのとき一番大切だと思っていることを何らかの仕方で授業を通じて学生たちに伝えたいと私はずっと思っていたし、今もその思いに変わりはない。極端に言えば、授業はその手段でしかない。歴史の授業であれば歴史的出来事を通じて、文学の授業であれば文学作品を通じて、語学の授業であれば言葉の用法を通じて、そうしてきた。一応知識的な面で極端な欠落がないように心掛けはしたが、テーマによっては参考文献を示して「これ読んでおいてね」と言うだけですっとばして、自分が語りたいことをかなり自由に語ってきた。
 それに対する学生たちの反応は一様ではない。「な、なんで、こういう話になるんですか?」と戸惑いを隠せないことも彼らにはあった。ありきたりの授業でありきたりの課題を期待する向きもあった。そのほうが予習も復習も型通りにできるし、試験も記憶力を発揮すれば合格点が取れるタイプの方が安心だという学生もいた。
 だが、そんなことなら教室の授業はいらないではないか。極端に言えば、参考文献表を年度はじめに与えて、定期試験でその習得度を確認すればよい。つまり、教師などいらない。「理にかなった」試験問題と「客観的な」採点基準にしたがって誰かが適当に採点すればそれで事足りる。
 私が学生たちに求めることはただ一つ。君たちはどう考えるか。これだけである。もちろん彼らに自発的かつ自律的な思考を促すために出題は工夫する。参考文献の受け売りなどではまったく点数が取れない問題を出す。彼らも最初は仰天する。だが、彼らもすぐに気づく。自分で考えることなしに何かを学ぶということはそもそもありえないのだと。
 大学が閉鎖になってから、私はこの方針で全面的に「攻め」に出ることにした。「これがこの問題について私の考えていることだ。君たちはどう考えるか。君たちには私の考えを批判する権利がある。遠慮するな。ただ、建設的な議論をするためには、お互い根拠を示し合い、それを一緒に検討する必要がある。ただ一方的に自己主張するのは議論ではない。」これが基本方針だ。
 このようなやり方に対して賛否両論あることは認める。ただ、この一月余り、確実に手応えを得ている。今日もとても嬉しいことがあった。
 自宅待機を強いられているだけでも困難な状況であるのに、コロナウイルス感染とはまったく別の理由で入院せざるを得なくなった学生がいる。原因不明でまだどれだけ入院が続くかわからない。学科長として、すべての教員に向けてその学生が入院前の成績だけで単位が取得できるよう配慮を求めた。すべての教員がそれに応じてそれぞれに対応策を考えてくれた。
 その学生からそのような配慮に対する感謝のメールがさきほど届いた。ところが、その中に、私が出題した倫理に関する問題にはどうしても自分の考えを述べたいから締め切りは過ぎているがレポートを書いてもいいかとあった。もちろんかまわない。いつでもいいから送りなさいとすぐに返事を送った。
 締め切りを守らせることや公平な成績判定基準は学事の円滑な運営には不可欠だ。だが、それよりも大切なことは、自発的・自律的に思考するように学生たちを「唆す」ことであると私は考える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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