内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

読むこと、それは、書かれたテキストと書かれえない全体像との間の無窮の往還運動

2018-08-28 23:59:59 | 読游摘録

 寺田透『正法眼蔵を読む』(法蔵館、新装版、一九九七年。初版、一九八一年)の「はしがき」にヴァレリーの『カイエ』哲学篇からの引用がある。寺田自身の訳である。

 ひとの書くものがそのひと自身といかなる點で異り、書かないことがどれ程重要かを知るには自分自身書いたことがあるだけで十分である。
 さうしてみると、書かれたものから全體的思想に向つて、一本のペンから出たものすべてを近寄せたり、嚴密に照し合せたり、これ以上は出来ないといふ位飛切り細心に解釋したりしつつ遡ること――それは、それが正確で完全無缺であればあるだけいつはりの(すなはち實在しなかつた)思想と架空存在を生み出す。

 達意の訳だが、原文も引いておこう。

 Il suffit d’avoir écrit soi-même pour savoir à quel point ce que l’on écrit diffère de soi-même et combien ce que l’on n’écrit pas est plus important.
 Il s’ensuit que remonter de l’écrit à la pensée totale, en rapprochant, collationnant rigoureusement tout ce qui est sorti d’une plume, l’interprétant le plus scrupuleusement du monde — produit une pensée et un être fantastique d’autant plus faux (c’est-à-dire qui n’a pas existé) que c’est plus exact et complet (Cahier I, Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade », 1973, p. 631).

 寺田はこのヴァレリーの託宣に抗して『正法眼蔵』を読もうとする。テキストの言葉だけから道元の思想の核心を摑もうとする。しかし、それは全体的思想を無視するということではない。

 このときとて、といふよりこのときはさらにひとは、既成の全體像に對する忠実と尊重とともに、それを破壊するやうにはたらく發見や確認に對しても誠實にふるまふ柔軟さを要求される。
 すなはち、通讀し解釋するに當つていよいよ「細心」、「嚴密」、敏感でなければならないのだ。(『正法眼蔵を読む』二頁)

 ただ書かれたテキストだけを読んでそれを理解するということは実際にはありえない。けっしてそれ自体は書かれることのない全体的思想と書かれたテキスト全体との間の相互参照を細心の注意をもって厳密な方法論に拠って行うことによって、書かれたテキストから書かれえない全体像へ、そしてその全体像からテキストへという思考の往還運動が生まれる。この運動は無窮である。その無窮の運動の中で一つの思想を生動させること、それが読むということなのだと思う。












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