内的自己対話-川の畔のささめごと

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『君の名は。』の瀧のセリフから日本語における人称代名詞の機能を考えてみよう

2018-08-27 23:59:59 | 日本語について

 『君の名は。』の中に、三葉と入れ替わってしまっている瀧が高校の屋上で友達二人と昼食時に会話するシーンがある。瀧が自分について話そうとして、「わたし」と言って二人に怪訝な顔をされ、慌てて「わたくし」と言ってさらに不審がられ、「ぼく」と言い直してもまだ二人は変だと思い、「おれ」と言い直してようやく二人は納得して頷く。瀧が普段友達同士で話すときに自分を指すのにどの一人称代名詞を使っているか、それと違った人称代名詞を使うと周りはどんな反応を起こすかということをユーモラスに描いているシーンだ。
 このシーン、フランス語には訳せない。もちろん英語その他の欧米言語にも。手元にある仏語版のブルーレイでは、字幕では、「heureuse, satisfaite, contente... content」となっており、吹き替えでは、「distraite, inattentive, rêveuse...et tombé」となっている。いずれの場合も、最初の三つの形容詞が女性形、最後の一語が字幕では男性形、吹き替えでは男性形・女性形で発音上の区別がない過去分詞を置いている。どちらも苦肉の策だが、日本語のオリジナルヴァージョンでの人称代名詞だけでの言葉遊びの面白さはまったく反映されていない。それはそもそも無理な相談である。この意味で、このシーンの瀧のセリフは欧米語には翻訳不可能である。
 日本語における一人称代名詞の機能について説明するときの話の枕として、この場面を昨年仏語版の発売直後に授業で使ったことがある。学生たちは日本語とフランス語との間のずれに思わず笑っていたが、こちらの狙いは、このずれが日本語の機能の理解のために大切なポイントの一つであることを学生たちに示すことにあった。
 日本語の人称代名詞は、待遇的な情報を多く担わされている。つまり、話し手や指示される人物の上下関係、社会階層、性別等によって、さまざまな語が使い分けられる。それゆえ、人称代名詞は、語彙数が多く、使用例の歴史的変化が大きい。
 一昨日の記事で取り上げた『現古辞典』は、日本語の歴史上に現われた一人称・二人称代名詞の語彙群に見られる特徴および歴史的変化の傾向として次の三点を挙げている。
 ①指示の曖昧化。特に場所を介する指示。「あなた」「お前」「そなた」「そのほう」などの二人称代名詞はいずれも相手の場所を指している。商取引などでは、自分たちのことを「手前ども」と言う。あるいは「こちらといたしましては」などもこの部類に入るだろう。
 ②地位・身分・年齢階梯語からの転用。これも一種の曖昧化であるが、地位・身分・年齢関係を表す語彙によって話し手自身や相手を指し示したものが固定化したものである。一人称では、「やつがれ」「わらは」、二人称では、「きみ」「わぎみ」「わぬし」など。
 ③敬意および品位の逓減。「君」「お前」「貴様」などはもともとは敬意をともなっていたが、今はその価値は失われている。
 三人称に関しては、「彼」「彼女」「彼ら」の使用は明治以降の翻訳の影響下に一般化したが、「英語の人称代名詞のような、指示詞の系列とは独立した三人称代名詞の体系は、厳密な意味では日本語に存在したことがない。」(『現古辞典』372頁)
 デカルトの『方法序説』と『哲学原理』の中に出てくる有名な言葉 « je pense, donc je suis » は、長いこと「我思う故に我あり」と訳すのが定番であったが、これを「私は思うゆえに私はあります」「僕は思うから僕はあるんだ」「俺は思うから俺はあるんだぜ」などと訳し変えることによって、それが誰に向けてどんな場面で言われ或いは書かれたかが違ってきてしまう。フランス語の一人称代名詞 je は、我でも、私でも、僕でも、俺でもない。












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